1189話 上手くなるということ 5 最終回

何かの練習で結果が上手く出なかった時、自意識は改善ポイントとして、自分が「まだ実行していない部分を挙げる」という恐ろしい現象があるのです。


日常生活の中での例を探してみます。


待ち合わせ時間に遅れた人。


「3時ちょうどに家を出られなかってん。ほんで3時15分の特急に乗れなかってん、ごめん。これからは遅れないようにするわ」


普段からこういう会話は耳にしますから、目くじらを立てるようなことではないんじゃない、と感じられませんか?


ご本人も待ち合わせに遅れて迷惑をかけたことを二度とくり返すまいという意識を持っておればなおさらです。


しかし、そういう行為をしてしまう自分を改善するにはどうしたらいいか、という視点で見直してみると、実に不思議なセリフが並んでいるのです。


「家を出られなかった」


「特急に乗れなかった」


「遅れない」


ご本人は反省してこういうことがこれからはないようにしようと思っているのですね。でも何かまた遅れてきそうな気がします。


つまり、今日自分がしてしまった行動とは違う行動に是正する、ということが改善するという行為ですよね。


ところが、この反省の弁には一言も「自分が実際にやった行為」が入っていないのです。相手の方にはこの言葉でいいかもしれませんが、自分に対しては、自分が実際にやった行為を思い出す必用があります。


3時5分に家を出て、3時18分の鈍行に乗って、3時42分に約束の12分遅れで到着した、というのがあなたのやったことです。


「3時ちょうどに家を出られなかってん。ほんで3時15分の特急に乗れなかってん、ごめん。これからは遅れないようにするわ」


というのは、「3時前に家を出て、3時15分の特急に乗って、3時28分には着く」と自意識が思っていたことをひっくり返しただけではないですか。


つまり、次回も、「3時前に家を出て、3時15分の特急に乗って、3時28分には着くようにしよう」と考えるわけです。でも今回も同じことを考えたわけです。なのに遅れた訳です。次回遅れないという保証は何もないではありませんか。気をつけたつもりのようで、遅れた今回と何も構えは変わっていません。


このケースの場合は、3時を過ぎてから家を出たという一点だけが問題ですね。特急も遅刻も全てはそれが引き起こした結果に過ぎません。


「3時まで何をしとってん!」が出てきません。


着ていく洋服を延々迷っていたのか、化粧に時間が掛かっていたのか、おやつを食べながらテレビを見ていたのか、改善できるのはその「実際に自分がやった部分」だけなのです。


洋服選び(もしくは化粧、テレビ)に余分な時間をかけていた自覚のある人だけが、次に遅れてこない人なのです。


M橋さんは、相手の内面の動きを読んでそれを補助する、という実技の見本を初めて見て


「げ〜、難しい」


と言いました。やったことのない彼女がどうして難しいかどうか知っているのでしょう。


うちのあさちゃんは、空手の稽古を自宅でやった時、「切れがない」と言いました。


道場の会員の方からは、しゅっちゅう「柔軟性がないんです」と言う声を聞きます。


体力がない、という声も聞きます。


○○がない、と認識しているから、対策は○○を付けるとうまくいくはずです。ところが○○がちゃんとくっついて、うまくいった例をほとんど見ません。


「切れ」「柔軟性」「体力」をつけろ!


ちょっと待って。つけるのは後でいいんです。○○がない、ということは××があるんです。××をどけないかぎり、○○が入るはずがないじゃないですか。


切れがないあさちゃんは、何をやっているのでしょう。遅い動きを「している」のです。


柔軟性のない人は何をやっているのでしょう。硬さを感じる動きを優先的に「している」のです。


体力がない人は、すぐに疲れを感じるロスだらけの動きを優先的に選んで「している」のです。


切れをつけるよりも、遅い動きを自覚することが先でしょう。


柔軟性をつけるよりも、どこがどう硬く、どういう意識と動きがその硬さをのみを感じる状態を生み出すのかを自覚するのが先でしょう。


体力をつけるよりも、どういうすぐに疲れを感じてしまうロスのある動きと意識なのかを自覚するのが先でしょう。


イラストレーターのかよちゃんは、「水彩のにじみがうまくいかない」と「思っていた」間は長年できなかったのが、自分は「どんな筆遣いをしているのだろう」ということに集中したとたんに、長年彼女の絵を見ている友人から「変わった、かわいいだけの絵が『きれい』に変わった。私の知ってるかよちゃんじゃない。遠いところに行ってしまった」と言われるレベルの絵が描けてしまいました。


デザイナーのS本さんは、今日の計画を綿密に立てるのではなく、自分が今やり終えた仕事と思いついたことをそのたびに書き出していったら、いきなりいつもの4倍の仕事量が終わってしまいました。


「演技力のない」人は、じゃあいったい何をしているのでしょうか?


演技力というのは、そもそも何のことを指しているのでしょうか。演技力というのは、「一時的に他人になる能力」ということができます。


演技力がない、ということは、他人になれないということ。他人になるためには、今やっている「何か」をどけなければならないということがここまでの考察で明らかになりました。


他人になれないその人はずっと「自分」を「している」のです。


だから「自分」が演技力をつけようとするほど、ますます「自分」はそこに居座るのです。決して演技力はつかないのです。


残念ながら。


ここまで書いて、なぜ自分がこれを書いたのか分かりました。


つまり東洋的視点からの体育の研究者である私が、なぜ「演技の本質を探るワークショップ」の講師をさせて頂かということです。


「演技力を付ける」ことに関しては、筆者は演技を語ることができません。


しかしながら、自分をどけることに関しては、参加されるどなたよりもおそらく実践研究しております。


どうも、そういうことみたいです。