1203話 選択肢はけっこうある

昨日のブログを読んで(書いて)気づいたことがある。


H住吉高校の授業前に、足の甲の骨折の生徒と、むち打ちで上が向けない生徒と、腰が痛くて便所でしゃがめない生徒と、関節がみしみしときしむような不快感で悩まされている生徒と(ってこの生徒の例は書いてなかったけど)をピポパと気のつっかえを押さえると、歩くわ、上向くわ、しゃがむは、関節くりくり動かすわ、という具合にあっというまに改善してしまった、というようなことを書いた。


故障箇所なんて一切触れていない。


故障箇所以外の場所に数カ所軽く指を触れて、本人の気がふっとそこに集まるような誘導をした、というのが比較的正確に「その時にやったこと」を表現すると思う。


おそらく、彼女たちは無意識に「もっとも折れた足の痛む動かし方の回路」や「上を向けないぐらい首が痛む使い方の回路」や「しゃがめないぐらい腰が痛む動かし方の回路」や「関節のこわばりを感じる動かし方の回路」を、選択し続けていた、ということではないかと思う。


翌週には、骨折の生徒はギブスをはずしてすたすた歩いていたし、腰痛の生徒は軽快にスクワットをしていたから、「痛くってしょうがない使い方の回路」からは乗り換えたまんまだったんだろう。


あるいは、痛くない使い方に乗り換えている間に、痛くなる使い方をしても痛まないようなバランスに回復してしまっていたのかもしれない。


痛かったのは本当なんだから、痛めた箇所があったのは事実であるのは間違いない。骨折って診断も受けているわけだから折れていないわけがない。


というような状況を合わせて考えると、「実際の損傷」と「その損傷からの苦痛を感じる意識の使い方の回路複数」と「その損傷からの苦痛を感じる身体の使い方の回路複数」がからんで、その人の「自覚症状」になっているということが想定される。


この「回路複数」は何種類あるかはわからないけれども、痛いのとあまり痛くないのとの二種類ということはないように感じる。もっとバリエーションがありそうである。


その方が「その損傷からの苦痛を最大限に感じる意識の使い方の回路」と「その損傷からの苦痛を最大限に感じる身体の使い方の回路」の組み合わせを選んだ場合は、「地獄の苦しみを感じる」「重大な損傷」ということになってしまうんだろうなあ。


本当に回復まで時間がかかる「重大な損傷」ではないにも関わらず、この「絶妙な組み合わせ」によって、過大な苦痛を余分に延々と感じ、のたうちまわっておられる方が非常に多数おられるような気がする。


逆に「その損傷からの苦痛を最小限に感じる意識の使い方の回路」と「その損傷からの苦痛を最小限に感じる身体の使い方の回路」の組み合わせを選んだ場合、選んだ瞬間から「ないのも同然」になれる人も非常に多数おられるような気もする。


さらには「その損傷の回復をもっとも早める意識と身体の使い方の回路」もあるように感じる。その損傷箇所にもっとも負担がかからないような使い方であろう。もっとも休まるような使い方かもしれない。


感じていること=実際ではない。


八方ふさがりのようでも、けっこうどうにでもなる要素はある、ということを立ち位置としたい。