1311話 歌わせたい男たち

ということで、京阪京橋の次駅、電車から見える劇団未来の事務所兼、ワークスタジオでの公演へ。


10分前に到着。


劇団未来 第70回公演 「歌わせたい男たち


を観劇。


今回は、自前のスタジオでの公演なので、11月7日〜9日までと、翌週の14日〜16日までの二週公演である。(ってことで興味のある方は劇団未来までご一報を。残席少しみたいだし)


前半5公演がこれで終了ということで、3時の公演後に夕方から小さい打ち上げがあり、八木氏とともに参加。そのままあれやこれや10時頃まで話をする。


いろいろと話をしていると、やはり「ある役者」の「ある場面」の「ある演技」という細部についての指摘や感想などが始まる。それもどちらかというと「それって違うんじゃないの?」という方向性に集中してしまう。


たとえば「あのシーンのああいう不自然なことはいらないよ」と感じ、それを指摘することになる。それを改善すればもっとよくなる、という考えが根底にある。


筆者もついついやってしまうのであるが、細部の指摘はよほどハイレベルの方にしてもらうのでなければ、良くなる流れを生み出さない。


ある部分が目立つということは、裏返せばそれ以外はそうではなかった、ということもよくある。違和感が目立つところの指摘・分析は多くなるが、なぜその違和感が目立ったのかという背景に思いをはせる方は少ない。


そこまで見て取れる力があれば、指摘する場所も変わる。(筆者ができるというわけではないけど)


目立つ一点を変えようとしても、それはそうなってしまう必然があってなっているのだから、意識的に変えようとしてもなかなか変わるものではない。


さらに、演劇というのは、もちろん一人一人の役者さんたちの演技の集積ではあるが、良かったか悪かったかというのは、作品全体で言えることであって、一人一人の役者さんの細部の手直しの集積によって決まるものでもない。


細かい演技はよくっても、作品全体としてはかみ合わないことだってあろう。


名優はいなくっても、作品全体としてうまくかみ合い、台本の意図した世界を、あるいはそれを超えた空間と時間をそこに表現することもあろう。


作品全体としてどうだったか、ということとの関連がなければ、細部の指摘はいい結果につながらないであろう。



筆者と出演者の方々との関係は、夏の演劇塾の講師と受講生の関係である。


ゆえに、今回の作品に絞っての単独の評価というものは違和感がある、ということに気づいた。


昨年の演劇塾から始まって一年。飛躍的に内容の変わった夏の演劇塾を受けて、より良くなる流れに乗って頂きたい、促進していってほしい、という時間的な流れの中で見ている。


そういう見地から言わせてもらうと、良くなかったところの指摘にあまり時間を使うのはもったいない。そのかわりに「あらたに出会ってこと、体感したもの」というものをどしどし出してほしい。


お互いに相手役に「今まで感じなかったのに、今回感じたこと」をどしどし出せばいいと思う。


それが複数でてくれば「今生まれつつあるもの」が明らかになってくるから、自然に次に向かうところが現れてくる。


頭で考えた方向性は何も生まないが、実際にやったことや起こったことの続きには次が待っている。


あなたの頭が何をしようと考えていたとしても、あなたが出しているのが右足なら、次は左足しか出せないのである。今動きつつあるものに、次を変える力がある。




小打ち上げ後の色々お話を振り返るならば、牧さんの


「客席を頭で見るのではなく、身体で感じるようにしていたら、客席におられたシャンソンの歌唱指導をしてくださった先生がおられて、まさに拝島と同じ境遇にあったことのあるその先生の思いみたいなものが、瞬間的にからだに流れ込んできて、セリフを言ったのではなくって、ほとばしり出るようにその思いが体を突き抜けて出たんです」


が印象的である。


これをスルーしちゃだめなのである。


アンケートの話なんて、後でいいから。


この牧さんの話をちゃんと受け止めて、自分の1時間30分の中に新しく何が起こったを探せば、自分の心身が今向かいつつあることが分かってくる。お互いにそれを伝え合えば、演劇塾の時のようにイモずる式に新しい出会いに気づくことになる。


いい動きが現れているんだから、見過ごさないでね〜!!



ほんじゃ、台本を拡大コピーして、読み直してみて下さい。牧さん、よろしく。A3ね。