1323話 合気異説
合気とは何か、合気道とは何かということの定義を述べる立場には筆者はない。その道の先人に直接学んでいる訳ではないから。
合気的なものの体験から、感じたことがらの私見を述べるだけである。
合気とは「相手の気に合わせる」という解釈解説や「天地一体 自然の気に合致する」などの解釈解説を耳にしたことがある。
「合気」とは「愛気である」との文言も素敵である。
相手に両手首を持たせて崩すという技。
皮膚表面上の知覚を、手のひらの紋のように細密なものとして感じることで、相手に伝わる何らかのものが変わり、崩れが生じ、それについていくと崩しの技になる、なんてのが先日まで練習していた方法。
本日。
相手に両手首を持たせた状態で、心から相手の体調を尋ねるという方法を試みる。
「今週は体調どうでしたか?」と声をかけると、相手はみるみる崩れていくのである。
「目の奥の不快感はやわらぎましたか?」で崩れる方もあれば、「首の突っ張りやわらぎましたよねえ」で倒れる人もある。
ただし、心からの言葉、相手の身体に響く言葉になっていることは必用なようで、チェーンの飲食店のマニュアルのような言葉で言っても、相手はびくともしない。
一切力を使う感覚なく、見事に技がかかるから稽古の有効性としてはきわめて高い。
しかし、演武会には不向きである。対面した武道着にはかまの二人が
「肩こりはどうです?」「腰痛はましになりました?」
と声をかけ合うたびに、相手がぐらりと重心を取られ、ばたりと倒れるのを見ても、一般の方々には武術の粋をそこに見たと感じられる方は希有であろう。
しかし、稽古する当事者にとってはどうか?
傍目にはなんら武術的な「いかにも」「神秘」を感じさせることなく、そして日常の中のあまりにありふれた現象を取り出して使う。それは日常でうわべだけではあきまへんで、ということを痛感させてくれる。
なかなか素敵な稽古である。
もう一つ付け加えるならば、うまくいった際には、相手との「つながりや一体感を作る」という現象としては感じられない。
相手と一つになろうとすることは、言い換えれば「今は別々だよ、分かれているよ、分離しているよ」という前提をがっしりと持っていることになる。
すでに相手とは一つなのに、それを別だと誤解している「ベール」のようなものがかぶさっているから、それを払いのけると、すでに技がかかっていることに気づく、という感触である。