1352話 

早々に寝たし、テレビも見なかったが、そういえば今日はM1の決勝戦だ。


だれが優勝したんだろうね、なんて家族で話をしていて、ふと思った。


何で優勝者が知りたいか探っていくと、1番の漫才を見てみたいと思っている自分がいた。


でも考えてみると、1番おもしろい漫才なんてあるんだろうか。



M1ができた後に、ピン芸人のグランプリR1ができた。


M1は漫才のM。Rは落語のRだったはずだ。


しかし、R1は、浅越ゴエとか陣内とかが出場。落語のグランプリにはなっていない。


枝雀さんと米朝さんと春団次さんと小文枝さんと…の誰が、「一番おもしろいか」というような大会など見たくもない。


どのような結果が出ても、不満が残るだろう。


1番2番というような単一の尺度で勝敗を決められるようなものは、ようするに底が浅いということにならないか。


笑いの多さだけで落語をはかれるか、ということである。味わい、深み、情感なんてものを総合的に加味すれば、落語の1番なんて決めきれない。


決めきれないような、幅と深みがあればこそ「芸」ということになっていく。


その芸人さんと、それを聞く「私」の相互関係の中に生まれる「味わい」があり、それが芸人さんの魅力となって、ファンになっていく。


M1やR1がけしからんと言っている訳ではない。


出場条件が「結成10年以下」というような縛りがあって、「若手のナンバー1」を決めるということである。


実力があるのに、日の当たらない芸人さんに日が当たるというような意味はあると思う。


M1の放送を見て、優勝は逃したものの、○○ってコンビは面白いなあとファンになる人が増えるならいいかもしれない。


しかし、放送を見逃した筆者が、優勝は誰だろうと思ったのは、単に1番が誰か知りたかっただけでファンになる心理とは関係がなかった。


なんてことを考えていた。



日野先生が、東京の行列のできる蕎麦屋の、店員のあまりの対応の悪さに、机をひっくり返して出ていこうかと思った話を書かれていた。


ガイドブックやら雑誌に紹介されていて、立地が良ければ、こんなにひどい店でも行列ができるんかい、ということだった。他の客は何で怒らへんねん、という話だった。


そういうことか。


ものの味が分かり、まともな商売が分かる人が多ければ、そんなひどい店は人は行かないし、紹介の対象にもならない。


本当の漫才ファンが多ければ、M1は成り立たないってことか。