1431話 予測可能性

メールというのは、様々な結果を予想しないで出せるものだ、というところが恐ろしい。さらに、知らず知らずに自らの責任の所在をあいまいにして、相手に下駄を預けるという行動回路が身についてしまうかもしれないところも恐ろしい。


昔の恋愛事情だと、直接か電話か手紙、ということになる。


最近は、取りあえずメールアドレスを交換して、差し障りのない内容を送り、徐々に内容を「その方向」へ向け、適当に遊びの誘いなども盛り込み、脈があるという段階を確認して「つきあわへん?」と軽く尋ねる、というようなステップで関係が成立する。(んだって)


こういうケースの場合、送信者はほとんと予測可能性を外れる深刻な事態を想定する機会がない。


たとえば、メールの場合は、まず確実に相手に届き、取りあえずは読んでもらえる。いつの間にか当たり前になっているが、これはつい10年少々前には希有でことであった。


彼女の家にかけた電話を、彼女が出てくれて、しかもそれを家族が気づかない、というケースはほとんどない。


彼女が不在、あるいは親父さんが出て「お前は何ものだ」ということを根ほり葉ほり聞かれた上で、しぶしぶ変わってもらい、彼女の電話の応答の雰囲気から、家族が聞き耳を立てているという気配が津々とと伝わってきて、話しにくいったらありゃしない、なんてのはざらである。


次にかけたら、親父さんは彼女を勝手に不在にして取り次いでもらえないというケースも多かったりする。


手紙を彼女の下駄箱に入れたら、彼女が取り出す時に横にいた別の同級生にも見つかってしまい


「ぎゃははは、C組の○○からラブレター来てるで〜」


と10分後には彼女のクラスで回し読みされている、というようなリスクを、メールではほとんど考慮しないですんでしまう。


しかし、だからと言って良いことばかりではない。


つまり、当時の青少年諸君は、「人生のバラ色の未来を夢見つつ、しかし人生は予測したものとはまったく違う最悪な結果がバラ色の未来の何十倍も待ちかまえている」ということを思春期に何度も何度も学習していたのである。


そういうリスクを経ていないから、告白の言葉も無責任なものになる。


当時のラブレターなり直接告白なら、「つきあって下さい」という文言になったであろう。


相手の心情がこちらの方に関心を強く持っていなくても、それを私の発言によって変えてもらう、という強い自覚のある文言が常套句と化していたのである。


しかし、昨今そうであるらしい脈ありという段階で発せられる「つきあわへん」というのは、あくまでも軽い「相手の意思確認」の範疇に入るもので、そこにあるのは「相手の承諾があった」という認識であり、そこには受け入れてもらった、だから大事にしようというエネルギーの発生はきわめて少ない。


メールは読んでもらえるのが当たり前、基本的に返事があるのが当たり前、というのは、実は少しも当たり前ではなかったのである。


その不自然な当たり前を維持するためには、来たメールはせっせと読み、別に用件のないようなメールにさえ、せっせと返事を送り続けるということが必要不可欠になる。


さもなくば、自分のメールを相手が読まず、返事をくれないということになってしまうからである。


かくして、授業中も食事中も風呂の中でも携帯を手放せない中学生が大量に発生し、そこには「予測から外れる対応は許せない」という硬直したひ弱な生命体と化するという運命がついて回るのである。