1459話 違うとしたらどこが

自分が「こうやっている」という意識があることは、実はそうはやっていない、という可能性が多大にありそうだ、という感触を得ています。


今まで書いていたことは、「行動」「動作」など自分のふるまいについてでした。


今日の夜の整体の際に、Nさんから聞いた話では、それは「行動」「動作」だけでなく、「自らの置かれている境遇」「状況」についても言えるのではないですか、ということです。


つまり、「自分はこうやっている」という「つもり」にはずれがあるように、「自分はこういうはめに陥っている」というのも「けっこういいかげんだった」という体験です。



実技の実習の際には、自分の動きが「つもり」であって「実際とは違う」のであれば、始めっから疑ってかかる作戦を採ってみました。


それは、進化体操をする際に、「私はけっこうましな魚体操をしていると思っているが、間違っているとしたらどこが間違っているんだろう」ということを宣言してから始める、という方法です。


ほとんどの方が、このやり方の方が、力みのない連動性の増したいい動きに変わります。意識的に修正しているのではないのですね。構えを変えるだけで、結果が変わってきたということです。


これは、別に筆者の思いつきではなく、内田樹老師が「不毛な会議を避けるための方法(他にも書いていらしたけれどすらすらと書けるレベルでは覚えていません)」として書かれていたことのスライド使用です。


会議中で出席者それぞれが「自説の正しさ」を主張しあうという形式では、会議の結果としてすばらしい結論が出る可能性は限りなく低く、長時間紛糾する可能性は限りなく高く、「自説が間違っているとしたら、どこが違っているんだろう」という態度でめいめいが参加するならば、妥当な結論がきわめて短時間で出る可能性が限りなく増す、というようなものでした。


Nさんは、これを自分の置かれている状況に応用して眺めてみたそうです。


私が「こうだ」と思っている状況が、もし違っているとしたら、どこがちがっているんだろうか?


すると「この人って僕に対して200%怒っている」と思っていてのが、なんだ、別に朝から晩まで怒っている訳じゃないんだ、という具合に見え、「なんて、最悪な状況なんだ」と思っていたのが、毎日毎日最悪な訳じゃないんだ、という景色が見えてきたということだそうです。


逆に「この方法で絶対に大丈夫だ、やったぜ、やったぜ」と過剰に喜んで、後で落ち込んでいたんだ、ということも思い当たってきてずいぶんと楽になったそうです。


自分がこうやっていると思っていることも、実態からずれていることが多いように、自分がこういう状況になる、ということもずれている、ということです。


一般的には、自信をもってものごとに取り組むことがいいように思われているようですが、そうでない可能性を少し加えることの方が、かえってスムーズに行くようです。



と、私は結論づけているけれども、この説が違っているとしたらどこがちがっているんだろう。