「ゆるめる」か「ゆるみに合わせる」か

こうやって背骨のことをあれこれ書いていると、「要するに背骨をゆるめるってことですね」と、言ってきた人はいないのだけれども、言わないけど思っている人もいるだろうから、そのへんの「こだわり」について書きます。


ただいま道場各クラスで稽古しているのは「よくよく調べてみたら、からだの芯である背骨というのは、ゆらゆらの魚のように揺らいでいるので、その「ゆらゆらした質」に背骨を取り囲む回りの「ごわごわ」「がちがちした部分」は合わせていきましょうよ」ということです。


「からだの芯をゆるめましょう」ではなく「芯のゆるみに合わせましょう」というニュアンスです。


言葉は似ていますが、その実全然違います。


「芯のゆらぎ」を体感できれば、まわりの「こり」や「こわばり」や「張り」が、「なんか勘違いしている」と感じます。「コース間違いをしている」という感じになります。


ゆえに、「芯のゆるみに合わせる」という体感からは、「誤解を手放す」「勘違いから解き放たれる」というコースに向かう選択肢が現れます。


芯に向かうほど硬いというのが事実・実態であれば、「外側から順にゆるめていく」というのが順当だと思います。


が、芯は実はふにゃふにゃである場合には、「ゆるめる」という意識は道を間違う可能性があります。


ゆるめるためには、ゆるまっていない部分を探さなければなりません。その「ゆるまっていない部分」というのは「本質的に硬いのだ」というアプローチです。


しかし、実際には、その部分は「勘違い」もしくは「コース間違い」でこわばっているのであって、実は相手のしかたに一手二手必用な蜃気楼のようなものではないだろうか、というのが現在の私の体感です。


意識的な動作の場合、多くは「その動作の目的をかなえるような動き」をするのではなく「その動作の目的をかなえていると自意識が感じ取れるような動き」をしてしまう、というおそろしい反射があります。


「強い打球を打つ」という目的がある場合に、「強い打球が打てるスイング」をするのではなく「私が今、強い打球が打てているように『感じられる』手応えのスイング」を作ってしまうのです。手っ取り早くは、不要な筋肉を力ませれば「力感十分!」になります。手応え十分なのに、なぜか飛距離が出ない、打球に速度がない、というようなケースはこういうケースです。自意識の手応えを作るために、実はスイングにブレーキをかけていたりするのです。


だから、ゆるめているつもりで、一生懸命「ゆるめている手応え」を作るために、無意識に一生懸命こわばらせていることが多いにありそうなのです。


しばらくたったら全然別のことを言っているかもしれませんが、ここ3週間は「芯のゆるみに合わせる」ことを一番にご推奨したい筆者であります。