理解する 1

速読の欠点といえば、ゆっくり読んでもわからない本は、速く読んでもやっぱり分からない。もちろん、それは速読の欠点という言い方は正しくなくて、読み手の能力不足ということである。


しかし、わかりやすい本が、さらに高速ですいすい読めるようになると、わかりにくい本を高速で読んだ時には、いっそうわかりにくくなってしまうと感じるのも事実である。


国語のM安先生が言うとおりに、読む力(速さと理解力)がつけば、あらゆる学習の基礎になる、ということはまったくご指摘の通りと思う。学ぶということがおもしろくなり、結果として成績が上がればいっそう楽しくなる。


速読では、その「理解力は変わらないから、読み返す方法を桁外れに多くする」という方法を提案している。一分間勉強法なんていうのも、そのあたりが似ているようだ。


残念ながら、筆者はこの方法での顕著な手ごたえはまだ感じられない。


読む、という行為は外から知識を入れるものである。しかし、入力したからといって理解にはならない。


そのパソコンにないフォントは表示されないし、「ドコモ以外」の携帯から来たメールの絵文字が、ドコモの筆者の携帯では表示されないようなものである。


外から来た情報を受け取ることはできるが、それを理解するためには、こちら側の中に用意されたものがあって、それが表面に表示されて「ああ、そういうことなのね」という理解が生まれる。


網膜に映るというのと、そのものを感じて理解する、というものの見方には差がある。


駅の向かいのホームに人がいるのが目に映っているというのと、駅の向かいのホームに「密かに思いを寄せている2年C組のA子ちゃん」を見つけちゃった時の差である。


興味や関心が無いときには、ただ網膜に映っているだけだが、興味・関心・意欲・欲望・下心などが加味された場合には、自分の身体感覚を動員して、見る行為に参加させているということを、演劇塾八木さんのワークをヒントに強烈に体認した。


その時の身体感覚に動員された部位の組み合わせで、同じ対象でもとうぜんそのとらえ方がまったく異なってくる。


上下型一種のM安さんは、道場で「扇風機をしっかりと見る体感の稽古」をした際には、無意識に首を伸ばしてあごを突き出していた。首と頭で扇風機の構造と非常に近いものをつくって、それを体感して扇風機をとらえていたのである。


正面から扇風機を見ていたN津さんは、顔をぱっと開いて扇風機をとらえている。


彼女は、扇風機の丸いカバーの放射線状の広がりと真ん中の円を、まさに自分の顔を開くことで体感していたのである。


劇団未来の島さんは、パイプイスを感じる時には、背もたれを形作っているパイプの形を、自分の両肩のカーブ(ハンガーの部分ね)で感じ取っていた。


この実験で、人それぞれ同じものを見ても、まったく違う見方をしている、ということのおもしろさは、19日〜20日の体癖セミナーでたっぷりやりますので、興味のある方はお問い合せ下さい。


ということで、この話は明日以後に、人それぞれのものの見方があるのであれば、文章の理解度を高めるためには「こうしたらよかったんや」、という秘策の発見へと続きます。(たぶん)