意図しない結果

はあ、なるほど、である。


最近は、「うず」と「骨」に注目の筆者である。


歩きながら、主要骨格の骨の位置を探りながらの日々である。


という文章の後に「しだいに骨の正確な位置を把握できるようになり、それにつれて動きの質がどんどん良くなった」というような文章が続けば、いかにも納得なるほど、ふんふんという流れである。


そうはならない。ちょっとしかならなかった。


ごく一部の骨の位置について「ああ、ここにあってこういう動きをしていたのですか」ということがおぼろげに見えてきた、という程度である。


かわりに、見えてきた骨のまわりの筋肉がごそっと、ゆるんできるのが解った。ほんとにごそっとである。


筆者は決して「筋肉をゆるめよう」などとは意図していない。骨はどこ、骨はどことやっていただけである。


骨は硬い。伸び縮みしない。そして、骨そのものには運動にともなう知覚はない。(押したり、折れたりすれば別である)


だから、骨を探す筆者の願いに対して、筆者の体は「柔らかくなったり、硬くなったりという変化をしないところ」や「伸び縮みをしないところ」を探したらしい。


結果として、筋肉の引き締まりとゆるみの差が大きくなるほど、伸び縮みの差が大きくなるほど「変化しない骨の部分」の位置は正確になっていく。


筆者は「骨の部分を少しずつ塗りつぶしていく稽古をしよう」と意図していた。そして、骨の位置が正確に把握できるようになったら、動作の無理が減少して、結果として後日柔らかい筋肉が出てくると予想していた。


ところが、体がやってくれたことは「骨がない部分を塗りつぶしていって、塗り残った部分が骨だった」であり、「骨がない部分を塗りつぶす作業そもののが、筋肉をゆるめる作業だった」ということだ。


そういう経過をたどった結果、次のような仮説を得た。


筋肉をゆるめようと考えて、筋肉のゆるみを知覚しようと努力する。しかし、この場合、骨はもともと硬いから、骨と比較してもゆるみは感じられない。


やむなく、筋肉同士の比較でゆるみを知覚しようとする。


しかし、ゆるんだ筋肉同士を比較してもゆるみは知覚できない。


手っ取り早く、ある場所の筋肉のゆるみを知覚するもっとも簡単な方法は、「今ゆるめようとしている筋肉のとなり」を(たぶん無意識に)硬くすることである。


首のつけねをゆるめようとすると、体は「へい、首のゆるみ一丁!」と注文を受け、肩を硬くする。すると発注元は「おおお、首のつけねがゆるんだわい」とほくそ笑む。そして、「じゃあ次に肩をゆるめよう」と意図すると体は、「へい、肩のゆるみ一丁ご注文!」というので、即座に「首のつけねを硬直させることで」、発注元に肩のゆるみを自覚させるのである。


こうして、一箇所ずつゆるめていった結果、どこもゆるんでない自分ができあがるのである。(たぶん)