見たくない、聞きたくない

顔の感覚器から、気道・消化管とたどることでびっくりするぐらい変わる。


耳を聞こえの誘導になるようにうずを通したら首が曲がる。鼻の息を通るようにしたら首が前後に動く。のどを通したら首のつけ根の詰まりが抜ける。胸まで降ろしたら肩胛骨が変わる。


それぞれを、その役割の通りに通るようにしたら、こわばりが抜ける。


通りにくいからこわばっているのか。


もしかしたら、わざわざ通らないようにして、それがブロックを作っているんじゃないだろうか。


つまり、私は聞きたくないものがずいぶんあり、見たくないものがたくさんあり、息も適当にしか吸っておらず、香りを楽しむこともなく、ご飯もろくに味わっていない、ということではないかと考えた。


そんなつもりはさらさらないが、よく考えればつもりがないからといって、そうしていないことにはならない。


私が見たいものしか見ていない場合でも、見たいものしか見ていないので、見ていないものは見えない。見えないものが見えてくれば、私が見たいものしか見ていないことが解るのである。見方を変えない限りは、景色は変わらないので、私はあるがままに全てを見ていると思ってしまうのである。


しかしながら、ふだん、うずを目にかけたり、触覚を伸ばすイメージで景色に触れながら歩いたりしているだけで、ずいぶんと見落としているものがあることが解る。


その程度でも見え方は変わるのであるから、それでも見たくないものは見てない可能性は高い。


火曜日に耳を通したS子さんは、悲鳴を上げた。


「音が、声が聞こえすぎて気持ちが悪い〜、ぎゃ〜」


肩こり、首コリというのも奥が深そうである。


感覚器を中心にしたアプローチを深めていったら、アプローチすべきまた別のポイントが浮上してきた。


これも楽しみである。