76歳中学生

4時半に目が覚め、朝の6時からなんのきなしにつけたテレビで、鳥取県の中学校のドキュメンタリーをやっていた。


鳥取県では、中学校への社会人の聴講制度というのをもうけている。大山のふもとの町の中学校に、英語の聴講生として76歳の男性が入学していて、その男性を追うというかたちで番組は作られていた。


戦中戦後のどさくさで、小学校(国民学校)しか出られなかった男性、70代の今も大工さんとして働く人だ。行けなかった中学校の勉強がしたい、というので、この制度を利用して中学校へ。


全ての教科を受けるというのではなく、中学校の一年生の英語を聴講されている。実は今年は二回目の一年生。最初の一年だけではまだまだついて行けず、二年目になって「やっと英語が頭に入ってきた感じです」なんだそうだ。


で、その教室風景を見ていて、「いいなあっ!」と感じた。「これっていいぞ!」と思った。良質な異質のものが一つ混じることの効果というのを、ひしひしと実感したのです。


中学校でも高校でも、同世代ばかり圧倒的に集まっていて、そこに教師が関わる。同世代ばかり集まるということは、価値観や世代観などがほぼ一定の枠の中に収まってしまう。


教師の方も、いろいろと授業を良くしようと工夫はされると思うが、その「同世代が集まっている」という構図の中で考えられるわくの中でしか工夫できない。生徒だって同じ。勉強はやらされる、おもしろくない、苦痛だ。


そこに教師よりもはるかに年上の、意欲満々の76歳が一人混じるのである。一年では足りないと悠々と再受講されているのである。そういう存在が一人いるだけで、生徒にしたって自分が強制され苦痛と感じることを、どうしたって別の角度で見えてきてしまうのである。


教師だって、苦痛・強制として圧倒的に受け取っている生徒を前に、どうしたってある程度の枠の中で手を打ってしまっている面がある。しかし、そこに本気で勉強したいと思っている人生の先輩が一人いたら、今までと同じ授業はできなくなってしまう。


事実、この男性が聴講しているクラスでは、他のクラスに比べて学習意欲の面で、あきらかに差が出てきていると校長先生が語っていた。


この男性は大工が本職なので、「技術」の授業の「木工」の時に、特別講師としてその大工の腕前を披露されていた。


板一枚のこぎりで切るだけで、ふだんは同級生である中学生たちが「すげえ」「大工さんのオーラが出てる」と感動しているのである。



中学校とその授業というと、自分ももちろん体験済みだから、こういうものだというのはだいたい解っている。が、解っていない。その中学校の授業に76歳の方がぽこっとはまったとたんに、いきなり中学校というものが「見えた」のである。おおお、これが中学校だ、というものが見えたのである。


見え方が変わったとたんに、行動が変わるのが見えたのである。


自分を変えたいとか、成果を出したいとか思う。がなかなか変わらないし、成果も出ない。それは見えている景色、情報の入れ方、取り方が同じからだからではないか。


しかし、「見方を変えよう」というのは効果がない。変えたつもりでも、いつも通りの発想や行動しか出てこなかった。


だから、この番組で、13歳の集団に76歳が一人入られた時に、いきなり中学校がこういうものだったんだ、というのが見えたという経験はとても貴重なヒントだと思っている。