決身

昨日書いたように、自分は過去のことを覚えていると思っているけれど、それは思い出せることのみをつないでいるから覚えている景色になるというだけで、実際に昨年・一昨年と記録を見てみると、忘れていることだらけである。


読んだら、もちろん思い出せるけれど、読まなかったらそのまま永遠に忘れてしまっていることもあるかもしれない。


だとすると、「私の今日がありますのは、○○と○○のおかげです」、とか、「俺がこんなに不運なのは、××と△△のせいだ」、なんて思いもはなはだ怪しいことになる。


「○○と○○のおかげ」ももちろんあるのだろうだけれど、それ以外にもきれいさっぱり失念している「○○A」「○○B」「○○C」…以下続くが、そこに考慮されていない。


だから、詳細な日記などに基づかないような自伝というのは、実はあまりあてにならない。(ような気がする)


昨年一昨年の話だから、忘れていることもあろうと読者諸兄は思われるかもしれなが、最近はたこ帳に「その日やったこといろいろ・自己評価の採点付き」を始めたので、それこそ三日前どころか、今日の午前中のことでもけっこう忘れていることを日々確認している。


自分の意思の弱さにお嘆きの方も多かろうと思う。決意決心の続かないことに、自己嫌悪に陥る方も多かろうと思う。


しかしだ、冷徹に自己分析するならば、これだけあたるさいわい忘れている私が、私のした決心だけを選択的に覚えているということの方がおかしいと思う筆者である。


だから、最近筆者は自分の意思を強くしようなどとは一切思わない。無理。少なくとも私には。


私は意思が弱いのではなく、決心したことを忘れているのである。そしてそれは、多くの人がそんなもんなのである。そうとらえると気が楽である。そして、意思を強くしようとする無駄な努力で時間を浪費しないでいい。



ある日の決心で、人生が変わったような文章に出会うことも多い。それは意識が決心したのではなくって、身体の方がそれを実行するモードに入ったということではないかと思う。決心ではなく、決身である。


ちなみに、最近筆者は、続けようと希望した(決めたのではないのだ)ことが、容易に続くようになった。


それは、決心しないからである。決心なくして挫折はないのである。続けたいなあと感じることを、複数並べて、身体が反応したことを順に続くだけやっているのである。そういうのが、あさってやる「TY式=たこ焼きライフマネジメント」の原理の一つである。


定員にもう少し空きあります。お申し込み問い合わせは、新大阪健康道場HPからどうぞ。

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