センサーがないことについて

整体には行気といって、自分で自分の身体のどこかに気(意識)を集める稽古法がある。


昨日書いた「外の世界で整体をする」というのは、体の外に行気する方法ということだ。


私は、私がキャッチした情報によって次の行動を選んでいる。反射的に出している。


ということは、私がキャッチできない情報によって、知らずに次の行動を制限されている、ということも考えられる。


特定のエリアから来る情報の受信不可能な状態によって引き起こされる、私の全体性の不全が、肩こり・首こり・背中こり・連鎖して頭痛、眼痛なんかにつながっていそうだ、というお話である。


いい考え方だなあと、自分で思いつきながら自分で感心する。


自分を変えたい、変わりたいと願う心は誰でも多かれ少なかれあるだろう。


そのときに想定している変化の方向というのは、さて、私を取り巻いている人たちが望んでいる方向だろうか。


ずれてそうだなあ、と思う。


あの人なんとかしてよ、とその職場の全員が願うような人というのがたまにいる。が、多くの場合、衆目が一致して変わってほしいと念願する方向へは、ご本人びくとも動かない。しかし、そういう人の中にも向上心やら変わりたい願望というのがあるだろうと思う。


しかし、多くの人が望む方向には、その人は決して変わろうとはしない。多分、周りの顰蹙(ひんしゅく)を買っている行為・行動・ふるまいに関しては、センサーが欠如しているのである。ゆえに変わりようがないのである。上司の叱責も、先輩の注意も、その問題行動に対するセンサーが起動しないかぎりは効果を持たないだろう。


というような状況はざらにある。


ということは、私にも当然起こっている。


しかし、私は顰蹙を買う私の行為に関してはセンサーが機能停止しているので、是正する行為を選ぶことが出来ないということも当然起こっている。


少なくとも、他人の肩こりを取るという行為に関しては、成功している。また自分で自分のこわばりを緩和、消失させるという行為に関しても、私だけではなく、今日の特別講座参加者、昨日の整体教室や自然体チューニング、またネクスト参加者はことごとく成功した。


ということで、今私の関心は、私が気がつくことが出来ない私がやり損ねていることを、機能停止しているセンサーを起動させることで気がつき、行動の選択肢に加えられるようにするための方法を模索しているところである。


楽しい。