キムラの時代だ 1

昨日書いたように、自分の周囲への意識の欠けたところをまず埋めてから、いろいろなレッスン内容へと進みます、というレッスン方針が明確になりました。


何かの作業をしようとしたら、特定の姿勢を取ります。その姿勢を保つには、特定の部位が連合して緊張することで保てます。


その特定の姿勢というのは、姿勢が先にあるのではなくって、手元だったちょっと先だったりにある特定の働きかけようとする対象の位置と作業内容が決めています。つまり対象が決めているのです。


緊張がないという人がない、という首や肩のこわばりですが、肩首(背中でも腰でも)の特定部位の緊張というのは、だから特定対象への働きかけをずっとしてしまっているような状態が持続しているということになります。パソコンの暴走みたいだなと思うことがあります。


過去は、そのこわばりそのものに働きかけて、こわばりを軽減〜消失させようとしていたのですが、何の理由もなくこっているわけではなくって、無意味だけどある作業が継続しているような状況を止めてやるという見方をした方がよさそうだ、ということになったわけです。


特定部位の緊張は、からだのまわりの特定位置への意識集中が止まらなくなっている状況というのがあるわけです。


だったらその意識集中(気詰まり)に働きかければいいようなものですが、集まっているものを散らすというのは難しい。


私の周辺にあるものを認識するためのエネルギーの総量が100あるとして、気詰まりがあると、そのうち10ぐらいが気詰まり対応として使われ続けているとします。


10が無意味に使われ続けているとしても、やらなくっちゃいけない仕事の量は変わりません。残りの仕事を90でやらなければなりません。


私がその仕事を割り振りする係だったとしてら、10の欠損を残りの90から捻出しなければなりません。


その際、さまざまなお仕事に割り振られているエネルギーを、一律10%減にすればいいようなものですが、その計算がかえって手間になって、計算そのものにエネルギーを費やしてしまいますから合理的ではありません。


すると、「まっ、この辺はほとんど仕事をすることには使われないから、この辺のへんぴなエリアに使っていたエネルギーをごそっと引き抜いて、そのまま使いすぎの10の方に手当てしちゃえ」というような対応をすることでしょう。


その「意識集中する対象から外れてました!」というエリアに、えいやっと意識を再インストゥールしちゃうと、暴走していた意識集中がぽろっと外れます。(永遠ではありません。癖付いた身体というのは、そんなになまやさしいものではありません)


というように想像されるメカニズムの仮説の上に、気抜け補充でこわばり解消現象が起こったことから逆算して、こわばりがあると、動きが十全にならないのと同様に、情報収集センサーもいびつになっているということがかなり色濃く予想されるわけです。


そういう考察の結果、「こんな稽古やトレーニングをしましょう、それによってレベルアップしましょう」と提案しても、「こわばりが点在=意識センサーが穴だらけ」の状態でそれをやっても、センサーが狂っているのですから意図した効果が出せないという結論になってしまいました。 


からだのこわばりを取るための各種提案をしてきたのが、そのまんまじゃ効果でないから、さっさとこわばりを消しちゃってよ、意識のムラに手当すればいいから、ということになった訳です。


ということで、肩こりを楽にするにはどうしたらいいのだろうという試行錯誤の流れが、いつのまにか「とりあえずじゃまだからコリ取っといてね。稽古はそれからね」という途中通過駅みたいになってしまっています。


というのも、【「意識集中する対象から外れてました!」というエリアに、えいやっと意識を再インストゥールしちゃうと、暴走していた意識集中がぽろっと外れます。(永遠ではありません。癖付いた身体というのは、そんなになまやさしいものではありません)】と書きましたが、この方法を効果的に生活習慣に組み込むと、その間の身体の良好な状況への変化の定着度合いというのが、ここ数年で最高にいいからなのです。


それは筆者だけに限定されたことではなく、O田さんは「赤ちゃん以来の背中の弾力」と言い、Y路さんは「気持ちまで子ども以来の状態」で、N津さんは「肩こり4割減」を持続させているそうなのであります。(つづく)