私のことはおいといて
たとえば首を回すという運動を、自分の首を回そうとして回すのが世の中の常識ですが、となりの人の首も自分が回すつもりになると、いきなり動かし方の質が上質にかわってびっくりします。
これが「腕を回す」だろうと、「腰を回す」だろうと、「前屈する」だろうと、「呼吸」だろうと同じことです。
自分一人よりも、複数のからだの「代表意識=私」の状態でやった方が数段上質の動きになります。
まわりに人がいればそうするのですが、いないときには自分と同じ動作をしている「分身」をつくって、逆にその分身の動きにつられるような受け身意識でやることでも大幅に動きの質が向上します。
とにかく自分の中だけにこもらないこと。
今までと同じ自分のパターンでやろうとしないこと。
だいたい、今のこわばりもこりも引きつれも痛みも、自分のこれまでの意識や動きのパターンがもたらしたものなのですから、いくらいいことを習ったとしても、今までのパターンでやったのでは、そのいいことの効果にもブレーキがかかります。
そこで今年の新大阪健康道場では、自分のことだけ意識すると、自分のパターンを破れないから、周囲の人の身体を動かすつもりでやりましょう、ということをいの一番におすすめしています。
まず他人。だれも周囲にいなかれば分身。とにかく自分に引きこもらない。
「他人にかける」や「分身」を実践しているといろいろとおもしろい現象と出会います。
操法の型を取って肩のところに少し力みがあるとします。自分一人で工夫しているとき(別にこれで普通なんですが)には、それを違和感や操法の効果を損ねている引っかかりとは認識しないのです。まあ、自分に対してはとことん甘い。引っかかりであり、じゃまなのですが、それを「手応え」というふうにすり替えてしまいます。
そこで大量の分身の登場です。
自分一人なら「手応え」とごまかせていた肩の力みですが、5体10体50体100体と増幅して観ていくと、それは紛れもなく「力み」であり「じゃまだ」ということが明確になります。無視できません。
「人のふり見てわがふり直せ」という言葉がありますが、「わがふり」も100個まとめて観てしまうと、恥ずかしくて認めざるを得なくなります。
そして、次にどうするかというと、それを消そうとしないのです。ここはポイントです。消そうとしません。
かわりにその違和感の部分を100体にだだだ〜っとドミノ倒しのようにコピーしていきます。
そうやって不自然なところをきっちり認識すると、今まで固結びだと思っていたこわばりが、一瞬にしてちょうちょ結びに変わって、するするとほどけて消えていくのです。
主婦の方は特によくわかると思いますが、お昼に自分一人だともうあり合わせものもで済ませる。インスタントラーメンだったら、もう具なんて入れないで済ませてしまう。ところが、それが家族や子どものための食事であれば、野菜を入れる、卵を入れる。ハムを入れる。栄養のバランスを考えて作る。
我がことのためだけだと、それがたとえ一生懸命やったとしても、それに使われる気というかエネルギーの量の上限がぐっと低いラインに下がってしまいます。
架空でも100人分の責任をとっているような立場に行くと、違うのですね。
今年は、まずこれをマスターしていただきます。