三人展と昔話

ファイスブックにカメラマンの沼田孝彦さん(絆ベースでご一緒)が、石巻の川開きの写真をアップされており、感想をメールしたら丁寧なお返事を頂戴した。


沼田さんによると「19日に一日だけ写真展をやる予定です」とのこと。(詳細不明 わかり次第お知らせします)


話の流れで「有人さんや関川さんと一緒の写真展がやれれば」なんて文言がありました。おおおお、見てみたい。


有人さんは、時々登場するが、関川カメラマンもおもしろい方だ。6月末〜7月に石巻入りしたときにご一緒した。


「シェフ」と呼ばれており、朝っぱらから「おしゃれなフレンチトースト」が食卓を飾るわ、おやつにケーキを焼いたのは出てくるは、炊き出しで豪腕をふるうわ、夜食は準備されるはと八面六臂で料理が出てくる。なので


「どちらのレストランの方でっか?」


と聞くと


「カメラマンです」


「へっ?」


仕事で料理の写真を撮るうちに興味が出て、自分でもあれこれ作っているうちに素人の域を飛び越えてしまったらしい。


という「現場で汗を流す三人のカメラマンの合同展」は、ぜひ見てみたい。やりましょう。やってください。





沼田さんのメールの結びに「宮城の人間として感謝申し上げます、ありがとうございます。」とあった。拙ブログで、ボランティア参加の呼びかけ的内容が書かれることに対してかけられた言葉だ。で、思い出したことがある。


阪神大震災の時に、筆者は兵庫県民であった。激震地からは幸い外れて、被災者だけど数日でライフラインは復旧できたという伊丹市市民であった。


当時働いていたヨガの道場も被災地域が会員住居地エリアだったので立て直しが大変だったのだけれど、職場や家がなくなった訳でもなく、身内で亡くなった方もおらずという状況。あっという間に日常にもどったご近所周辺の生活に対して、西宮・神戸や宝塚の軒並み家が倒れている地域までは直線距離で最短で6キロである。自転車で行ける距離である。


休みのたびにせっせとボランティア活動をしたかというと、まったく動けない。行かなきゃ行かなきゃと思いながら、ぜんぜん動かない自分に悶々としていた。ほんのちょっと活動したのは一ヶ月後の3月下旬、整体の先生が東京から仲間を連れて神戸入りした時に一日くっついていっただけであった。


正確に言うとその時点では、まだ整体を始めておらず、避難所でも何もできない無力感。ということで、私の本質はそのていどの「へたれ」なのである。


一年たって、フリーで働こうとちょうど無職だった時に、日本海重油流出事故が起こり、ここで動かなかったらもう自分が何者か喪失してしまいそうで、出動。


そこで神戸元気村の方々と知り合いになって今に至るのである。


今活動できるのは、その時に知り合った人たちとのつながりがあるからである。なければ、動くに動けず、ただテレビの前で悶々として、仕事もうわのそらのただのへたれのおっさんである。阪神大震災の時に動けなかった自分は、トラウマになっている。だから動くのである。動かないと機能停止してしまうから。いいじゃないかそれで。



震災当時、勤務先のヨガ道場に向かって通勤する道路は、ちょうど被災地入りする幹線路になっていた。1月〜2月は、そのほとんどの車のフロントガラスには「災害救援」「復興支援」の段ボールの表示がある車だった。そして、そのナンバーが「熊本」「広島」「札幌」と日本中のナンバーだった。遠くから助けに来てくださったことがありがたくってありかたくって、ぼろぼろ泣きながら通勤していた(バイクで)。


「宮城の人間として感謝申し上げます、ありがとうございます。」


の一文を読んで、そんなことを思い出した。


だから、迷っている人は行きましょう。行って同じ思いの人とつながりましょう。つながるほど、次が楽になります。