コリに整体してもらう2

コリに整体してもらう、の一つ前の段階の話。


1〜2年前から自分の手がむちゃくちゃに気持ちいい手になったことに気づいた。帰路の電車で窓に頭をもたれさせて休む時、ちょっと手枕など作ろうものなら、たちまちその気持ちよさに眠り込んでしまう。ほおづえついただけでも、頭と首肩の緊張がたちまちとろけてしまう。


その手に触れられると、緊張していられないのである。


できる限り力を使わない整体なので、手の役目の半分以上は「押す・押さえる・圧迫する」ではなく、「感じ取る」である。


つまりこの手は、ここ十何年ひたすら感じることを本業にやってきた。物理的にもみつぶす整体ではない。気の感応を使って相手の身体がこわばりを手放す動きを察知して、静かに後押しするような整体である。


手を使ってほぐしゆるめるのではなく、手が触れたことをきっかけにこわばりを捨て、弾力に乗り換える部位をひたすら察知し続けたこの手である。


物事を理解するのに、二つの行き方がある。違い・差違を感じる方向と、同質化して質感を理解する方向である。


我が手はひたすら「ゆるみつつあるものと同質化することで、その変化の質感を感じ取る」ということを専一にやってきた。手のひらに生み出せる柔らかさよりも柔らかいものは、その柔らかさが感じ取れない。ゆえに我が手はひたすら我が身をより和らげることで、対象を感じ取るレベルを高めるという日々を積み重ねてきた。


手の質が変わると、触れられる対象の変化も方向性は準じてくる。


極端な話、硬いこぶしで腹を殴られると予測すると、腹筋は鉄のように石のように硬くなるという反射を起こす。硬いものには硬さで対応しようとする。だからぐいぐいと押しまくると、気持ちはいいけれども本質的にはほぐれないのである。


我が手はひたすら「より柔らかくなろうとするもの」に反応する物体として相手の肌に触れる。すると、先方でもそのことを敏感に察知する。我が身に触れたものの正体を理解しようとする。人間は正体不明なものが大嫌いなのだ。


皮膚は反射的に我が手の「ゆるみつつある質感」と同化しようとする。結果としてぱっと手放せる程度のこわばりはきわめて短時間に手放してしまう。


結果、我が手はその手のひら側を通り越して、手首から先はどこに触れても、触れた方がふにゃふにゃくなってしまうという質を獲得した。


その部位で、他者のゆるみを察知する習慣が、何に触れても緊張することなく和らぎ反射をするという現象は、何も手のひらだけの専売にする必要はなかろうと筆者は思い立った。


筆者はまだまだ未熟ゆえ、手首から先はものになったが、腕から肩はこわばりを持っている。そこで、こわばりがある部位が何かに触れている時、そのこわばりでもって対象物の内奥のゆるみ変化を察知するべしとトレーニングしていた。


でふと気づいた。整体を受けている人の緊張部位にその仕事をやってもらおうと。


しかし、整体を受ける人の緊張部位は、別に「整体をしよう」「対象のゆるみ変化を感知しよう」などとは思っていない。ひたすら「意味のない緊張」を持続しているだけである。勝手に固まって、周囲との情報の共有をしていないのだ。


しかし、人はその周囲の人の期待や意向を受けて、その方向に立ち位置を変えるという性質がある。頼られるとしっかりし、期待されると応えようとする。


幸い、筆者は仕事上人の緊張部位に触れることは自由自在である。そこで、そのコリがどういう立ち位置とポリシーでコリ続けているかなどお構いなしに、全身全霊で「そのコリによったゆるみ反射を感知されている存在」と化してしまうのである。


コリによって「痛くない整体をしてもらっている存在」に一点の曇りなく、なってしまうのである。


人間の総合力は偉大だが、部位ごとのしくみは単純である。こちらが勝手に「それによってゆるみが促進されている存在」になってしまうと、いやも応もなく「それをゆるめにかかっている存在」になってしまうのである。


「それをゆるめにかかっている存在」とは「自らをゆるめることで対象のゆるみを感知し続ける存在」のことである。


かくして、勝手にコリに整体を受ける存在になることで、コリは自らを解体し、ゆるみを感じ取れる弾力体にその立ち位置を変えてしまうのである。




///////////////////////