やってみる
昨日は宮部みゆきの新刊をついつい買ってしまって、やはり天下の宮部みゆきである、分厚い文庫の半分まで2時過ぎまでかかって読んでしまった。
単色のジグソーパズルのピースを一枚一枚はずしていくと、徐々に画が見えてくる。その姿を現した画像が、最後の数枚をはずしたとたんに、またたくまにまったく違う画になって現れるという、宮部パターンに、どっぷりとはまってしまった。
という話が書きたいのではなくて、その寝しな。肩がまったく昨日までとは違う肩になってしまったのに気づいた。
パーツは同じなのに、違う部品で違う接続の仕方をされたように全く違う体感で胴体に連結されている。肋骨から脇までのすべてが腕の一部として機能している。
なんとまあ、気持ちのよいこと。
変速機付き自転車だと長年知らず、ちゃんとローギアに変速したら、今までの坂道がぜんぜんしんどくなかったような状態だと自分の中で表現してみたが、足らない。
ふつうの自転車がいきなり電動アシスト付き自転車に変わったような感じの方が近いなと今日になって思う。
一晩たって消えてしまうわけではなく、ますます油をさしたようにいい感触である。
出町柳の風のね教室が、今日はお休みの人が多かったので、出席されたI崎夫妻やY山さんなどに、その感覚をガイドラインにして整体をかけると、何割かその「電動アシスト付き自転車状態」が伝わった。
というところまで先週の金曜日に書いていて、アップしそこねていたのをワープロの中に見つけた。
この身体の変化は、そのころの移動途中に行っていた次のレッスンや整体のイメージトレーニンの結果である。
イメージトレーニングをたっぷりやってから本番に望むと、とてもいい。予測していどむと、想定外と出会う。見込みを持つと、見込み違いと出会う。そういう「ひっかかり」がとてもいいのである。
逆に、レッスンや整体の直前までほかのことにかまけていると、その場になってスイッチを入れ直し、モードを切り替えてのぞむということになって、すこぶる気持ち悪い。
あわててスイッチを切り替えることが気持ち悪いのだとわかったので、だったらスイッチを入れっぱなしにしたらいいやん、ということに気づいた。
というので、以後常時整体モード生活を試みている。
整体モードというのは、ふだんの「頭や思考に意識を多く集めて、意識的に行動しよう」というスイッチを切り「体全体と対象、もしくは環境に意識をはりめぐらせる」状態というと近い。
「考えて、後、やろうとする」のをやめ、「感じながら、どのように動いていっているのかにひたすら沿っていく」という感じとも言える。
これは名作「燃えよドラゴン!」の冒頭で、少林寺拳法の達人ブルースリーが、修行中の若者の頭をはたきながら教えていたことである。
「バシッ」(頭をはたく音)
「考えるな!感じろ」
対象を分離し分析的に眺めるのではなく、対象と一体化してその一部になって、ともにうごめく、という感触でもある。
故にお風呂に入った時には、お湯と一体になるというのが整体モード中の私である。
昨日書いたが、物事を感じるのに「差異」を感じるか「質感を感じるか」の二つがある。差異ではなく、質感を感じるでなければ稽古にならない。
風呂に入った時の「温かさを」というのは、皮膚とお湯の温度差を感じるわけだから、これは差異である。ほっといても感じる。お湯に入って「ああ、なんて温かいの♪」と思うだけで技量が上がるなら苦労はない。
入浴中は、身体が液体の質感に可能な限り近づけるというので、稽古になり、整体チャンネル行動ということになる。
人の身体よりもお湯の方が圧倒的に柔らかいから、少々のことでは質感は近づかない。さらに、先日書いたように、私の中のもっとも硬さを手放せないところを最優先で使って液体の質感を感じるように入浴する。
すると、硬い背骨がくにゃぐにゃになりはじめ、腰がずるずると滑って沈んでいくことがある。すぐにおぼれるわけでもないからしばらくはそのまま沈んでいく。
ちなみに犬の散歩中は、できるかぎり犬になって散歩する。あとはとてもこの場では言えないような対象とも一体化する。ああ、言えないけど言いたい。
風呂の中でぐにゃぐにゃになって沈むのも、人前ではとても言えないような対象と一体になるのも、一般的な修行や稽古のイメージではないかもしれない。
が、有効である。思いこみを捨てて、何でもやってみる。
ブルースリーが、風呂の中で沈んだかどうかは定かではないけど。
ということで、人の身体から弾力を引き出す「痛くない整体」一日講座は週末、5日の日曜日です。