連載6回目

3月27日 東北へ出発


物資を満載して和歌山出発は27日の日曜日の朝。みなさんの支援金で買い込んだ物資と、自分が現地で生活するために必要だと思われるものを片っ端から積み込んだら、京都でラジオを積み込むスペースがなくなった。そこでルーフキャリアを買い、まだ雪の降るという現地情報にスタッドレスタイヤとともに、福井さんに取り付けていただき(福井さん、ほんとうにお世話になりました)京都のテラルネッサンス事務所で、この後の徹夜の運転を買って出てくれた会員でテニスコーチ宮本貴明君と合流して、ラジオを積み込み夜10時出発。


東京に早朝ついて採澤君と合流し、さらに物資を買い足して一路石巻へ。和歌山を出発してからおよそ30時間。夕方4時頃石巻市街に入る。


3月28日 石巻に到着 


仙台北部道路から三陸自動車道への連絡では、警察に止められ、免許証を提示させられ目的地や活動を説明して「通行許可証」(一ヶ月有効)なるものを交付された。特別な用事のないものは、この先入っちゃいかん、といわれているようで、得体のしれない緊張感のようなものに包まれる。ここまで走ってきた東北自動車道は内陸部なので、津波の被害というものは目の当たりにしていない。見える範囲では地震の被害で深刻なものもなかった。


そして、それまで知り得た情報では、この先の沿岸部はとんでもないことになっていることは間違いない。いつ「それ」と出会ってしまうんだろう、というそんな気分である。


採澤君に言う。


「災害現場ってなあ、あれ、たいしたことないやんって思ってたら、いきなり出くわすぞ」


自動車道路は、石巻方面から帰ってくる工事関係のような車両はけっこう列をなしているのだが、夕方のこの時間に石巻を目指す車両というのは、ほんのぽつりぽつりだ。


河南インターで降り、石巻市街に入る。ほら、いきなりきた。電気は通っていない。信号はみんな消えている。車もほとんど走っていない。もちろん人影もまばらだ。そして道路はどろが乾いてすすけている。開いている店はない。すき家もラーメン屋も薄皮たいやき屋も、COOPも、もちろん沿道の民家も、床上浸水した水害被害地のような感じだ。確かにこの一帯を波がかぶったという痕跡がある。(ただし、より海に近い地域の被害はこんなもんじゃなかったことを翌日知る)


きょろきょろと石巻専修大学に到着する。暗い。校舎外の「ボランティア受付テント」付近には誰もいない。


明かりのついていた社会福祉協議会の人が詰めるボランティアセンターへ。吉村さんとの事前の電話打ち合わせで、まず訪ねることになっていた社協の阿部さんは、打ち合わせ中とかで不在。持参したラジオをちゃんと阿部さんに渡すところを撮っておかないと、テラルネッサンスさんに報告できないんだけどなあ。今回の交通費はテラさん持ちだからなあ報告義務はあるし。


「物資どうしましょう」


「倉庫があっから、そこへおろしてくれねっか」


大学の「室内練習場」が物資の倉庫になっている。倉庫係のボランティアは「あっ、今炊き出しが始まったので、先に食べてきていいですか」と言って出かけたまま、20分たっても30分たっても、影も形もうんともすんとも帰ってこない。もう真っ暗だし、寒いし、息はを吐いたら真っ白だし。おなかも空いたし。でもちゃんと現地にラジオが届いたという写真を撮らないと、協力してくださったみなさんに報告できないし。


しかたがないので、ラジオやそのほかの物資を倉庫前で降ろして薄明かりで写真を撮る。「被災地にラジオを無事届けました!」という報告写真は、暗〜い倉庫前の闇に積み上げられた、ややくたびれた段ボール箱の横に、くたびれたおっさんが立っているだけの図柄になった。テラルネッサンスさんに写メールしたけれど、「本日の活動報告ブログ」にその写真が採用されなかったことは言うまでもない。


「7時からミーティングがあるから、参加してください」という吉村情報にしたがって大学施設の3階のホールに上がると、あれ、この大学にこんなに人がいたのとおどろくほどの人が集まっていた。半分近くが極端にどろどろな長靴姿である。ここでようやく吉村さんと合流。


この会議は、後に「石巻災害復興支援協議会」という活動体に発展する、この時点では、さまざまなNPOの情報をとりあえずシェアしようという連絡会である。


石巻専修大学というのは、石巻市街中心部から北東を流れる旧北上川沿いに建っている。堤防を越えて津波が押し寄せたのはもう少し下流までなので、校舎もグランドも無事だった。もちろん私立大学である。


なぜ民間の施設にこうやって行政がボランティアセンターを設置し、数多くのNPOが拠点として使えているかというと、まったくの偶然なのだが、石巻市石巻専修大学は3月末調印予定で「災害時防災協力協定」というようなものを進めていたらしい。そこへ震災が襲い、調印こそまだだけれど、事前の打ち合わせに沿った形で協力体制が取れた。大被災地に隣接した地域に、広い敷地と無事な建物を持ったボランティアの拠点が確保できたということだ。


そこにNPOやボランティア団体が「とりあえずあそこに行けば活動拠点になる」というので続々と集まってきた。それで、てんでバラバラにやっても、とてもこの大きな被害には対処できない、情報交換しながら協力できるところは協力しながらやろうというので、毎日夜7時になると、NPOや、個人ボランティアが集まって会議をするという流れのようだった。


ただし、そういうことが分かったのはずっと後になってからで、初日の印象としては、暗い、寒いわけ分からない、ほんまにここで思っているような活動できるんだろか、不安、混乱、力み、空回り…だった。ただひたすら緊張していただけだった。


夜は、その後の活動中ずっと拠点となった大学から徒歩10分のところにある南境生活支援センターに泊まる。ここは吉村さんが、石巻を拠点に活動すると決めた時に、大学に近い地の利のいいところに、何とか自分と仲間が泊まれるところをと探し、ご自分で地元の方と交渉して、ボランティアの宿泊活動拠点としてお借りしているものである。


神戸元気村や四万十塾、黒沢さんの風組などのつながりがあるボランティアたちが、続々と集結中というところなのである。


水は来ていないが、電気は通っており、石油ストーブもあった。ありがたい。多くのボランティアは明け方は氷点下の厳寒の専修大学のグランドでテント泊しているのだから。