オンザのヤスの店に行く/連載7回目

【4日】


今日は、スケジュールにやたら余裕があった。神戸サラシャンティから徒歩5分で、絆メンバーの浅やんのお店「白馬堂」があるのだけれど、実はまだ一回も行ったことがない。神戸が終わるとすぐに道場に移動しないと間に合わないから。


今日はヒマだったので行ってみた。残念ながらお店は定休日。しかし、しまったシャッターに、絆(オープンジャパン)の報告書と、アリトさんの写真展のチラシはがきが、防水されて貼ってあった。みんなできることをできる限りやってるんやなあと嬉しくなる。


夜も早く終わったので、那智勝浦に長期入ってくれたオンザロードのヤスとミオ夫婦が心斎橋に先日開店したというバー「俺」に行こうかと思っていたところに、ちょうどフェイスブックで「宣伝しまーす」と「俺」の情報がアップされた。


「隠れ家のようなお店にしたいので、ちょっとわかりにくいです。探せるものなら探してみてください」


と書いてあったので、探してみた。住所のビルに確かに着いたのだけれど、お店がない。三回行ったり来たりしたけれどやっぱりない。


降参してヤスに電話して迎えに来てもらうと、やっぱりそのビルで、店の前もちゃんと通っていた。なぜ分からなかったかというと、ドアがあるだけで、看板が出ていなかったからだ。


「隠れ家的な手作り感あふれるいいお店」だったけど、店そのものを隠すのは間違っていると思う。(看板を出し忘れたと言っていたが)


しばらくすると、バイト出勤まえのミオも、あいかわらずどたばたとやってきて、どたばたとあいさつをして、カウンターでどたばたと化粧をすると、カウンターにシュークリームを置き散らかして疾風のように出勤していった。


大分在住、まもなく京都に帰ってきますという北川結香子ちゃんというオンザのメンバーが、ヤスに「カウンター仕事の指導」に来ており、そうこうするととーるさんというバー俺のかっこいいロゴをデザインした人がやってきて、さらに、とーるさんの養女?という女大工のあやちゃんという、これは店の内装を手伝った女性などもやってきて、ヤスの被災地支援によって生まれた人と人のつながりでやっていっているんだなあというのがひしひしと伝わってきた。


自分が石巻に行けたのも、助さんやとーるさんが先乗りして活動をはじめていたからだ。未だに活動を続けていけているのは、そこから生まれた人と人のつながりがあってこそだ。


ご来店のみなさまにごあいさつ代わりにすわったままで簡単整体をさせていただく。お酒は飲めないけれど、また行きます。




・・・・・・・・・・連載7回目・・


3月29日
整体活動開始 がれきの中の湊中学校



 一夜明けた。大学に向かってみると、ボランティア受付は夜とは一転してにぎやかだ。しかし、駐車している車のナンバーを見ると、地元宮城がほとんどである。まだ全国からの支援の手が届き始めたとはとても言い難い。


 ボランティア受付を済ませ、社会福祉協議会の阿部さんにあいさつに行く。吉村さんによると「行政の人には珍しく、話が柔軟に通じて、自分でも動く人」だと聞いていたが。


 忙しい中時間を取ってくださった阿部さんは、疲労困憊の末期的症状という感じだった。ラジオを届けたこと、過去の災害救援歴などを話し、採澤君と二人整体師であることを説明し、そのスキルを生かして活動したいことなどを手短に述べる。


 阿部さんは、疲労に弛緩してしまった顔で、視線をあらぬ方向に向けながら


「歴史的な今までにない大災害だっぺや。海岸線、半島部、ものすごいことになって。まっ、おらも見て回れはしとらんのだけども。まずは、それを自分で見てください」


 そう言った。なにかひらきなおりのやけくそ、というトーンだった。


 「何から手を着けていいかもわからないぐらいの混乱の中なんだ。活動のコーディネートなんてとても手が回らない。整体したいというのを止めはしないから、自分でどこでどう活動するかは、どうか自分で探してやってくれ」
というふうにも受け取れる感じだった。


 この「とりあえず、被害のあったところを見て回れ」という発言に、微妙に違和感を感じた津田とたぶん採澤の二名だが、実はとても核心をついた言葉だったと分かる。


 後日岩手県に出向いた時に、中心部が壊滅した陸前高田のボランティアセンターでも同様のことを言われた。といっても、陸前高田はどこから市の中心部に入っても、市街がまったく消失しているから、被害がどれほどのものかは分かる。その時に言われたのは「仮市役所に被災前の街と被災後の街の航空写真があるから、それを見てくればいい」というものだった。


 放心しながら、たぶん自分でも何を話しているのかよくわからないといった阿部さんの感じだったが、その後の数週間の活動を経て、きっとこういう思いがそう言わせたのではないかと思う。


 「遠くから助けにきてくださってありがとう。ほんとうに嬉しい。ありがたい。でも、多くの人が、被災地外で作ったイメージで、『こんなことが必要なはずだ、こんな活動をしたい』とやって来られる。しかし、今回の被害の大きさは、それらの「都会で思っていた状況」を吹き飛ばすぐらいのけた外れなものです。安全な場所で考えたあなたの思いを、一度下に置いてくれ。で、ここで何が起こったのか、何が起こっているのかをありのままに受け止めてくれ。そして、あなたがやりたいことではなく、ここで必要なことにコンタクトしてください、頼みます」と。


 地元社協へのあいさつも終わった。では、いよいよ避難所整体の始まり、出動!となるかと言えばそうはならないのである。


 とりあえず車と整体師二名、足湯のための水、ナベ、コンロ、特大バケツふたつ、整体下敷き用の銀マットなどはある。が、どこにいったら行ったらいいのかわからないのである。どこになんて言う避難所があるのか、どうやれば避難所で活動できるのか、一切わからないのである。ラジオを届け、阿部さんに報告と挨拶を終えた瞬間、泥出しチームに参加しない二人は、この現場でただの生ゴミか粗大ゴミになったのである。


 しかし、捨てる神あれば拾う神ありである。


 昨夜、南境生活センターで、同じく整体をなりわいとされている東京の村山先生を紹介された。村山先生は、阪神大震災のおり、週末ごとに東京から神戸まで通っていたという方で、すでに数日前から活動を開始し、一人で避難所に出かけてはがんがん整体しているという。また村山先生がユニークなのは、ただ施術するだけでなく、一つは一人でできる簡単な体操のリーフレットを作って配布しながら活動されていること。もう一つは、行った先行った先で即席の「整体教室」も開催して、急造の「弟子」をつくり、避難所の中でお互いにやりあいっこをできるようにする、という方針で活動されていることだ。


 ちなみに、村山先生は私が愛読している武術・古武術の技術専門誌「月刊・秘伝」の「ご隠居の整体教室」の書き手であった。おおお。


 その村山先生から電話があり、避難所に連れて行ってあげるということだ。前夜に活動希望内容を少しお話をしたので、サポートしてくださるのである。


 「僕が何日か前に活動した入った学校に行こう」