連載9 湊中学 女川前編

・・東日本大震災ボランティア記録 9回目・・・・


お昼からもまばらな整体、足湯状態は続く。テレビ報道などにある「ぎっしりと並んだ足湯を受けるみなさんと笑顔」という情景はウソではない。けど、何の工夫もなしにその状態が生まれるわけではないし、テレビだってまばらで担当者があくびしている情景は放送せず、嬉しそうに人が群がっているところを放送する。


 活動初日、確かにこの被災地で喜ばれる活動で、お役に立てる技術(整体)であることは確信した。だけど、被災家庭からの要請に応えて出動する「泥出し隊」と違い、別に避難所からの要請に応えて出動するわけではない「二人整体チーム」は、それこそ「マーケッティング調査」や「営業活動」や「広告宣伝」や「顧客サービス」をしなければ、その活動は不調、不完全燃焼に終わるということを学習した初日の津田・採澤だったのである。


 ボランティアがいつもいつも使命感に燃えて、誠実に活動していると思うのは間違いである。少なくとも筆者には当てはまらない。


 やることがあるほど燃えるのである。困難なミッションほど、それはやりがいに変わり奮いたつのである。ここまではみなさん、現地入りする前から想像し、あるいは覚悟していることなのである。しかし、物事には表と裏がある。光があれば影がある。陰陽二元がある。つまり、やることがないほど、都会での日常活動よりも萎えるのである。ミッションの姿が見えなくなるほど、やる気が急速にしぼんでいくのである。


教室を回って整体をおすすめしても反応はいまいち。(しかし、ほんとうにその反応の悪さのようにニーズがないかと言えば、全然違ったということも後で知る)ということで、早くも午後3時。お二人様整体チームは早々と撤収を決めたのであった。



 今朝の阿部さんの「まずは見てください」の言葉に乗っかって「状況調査」に行くことにした。何せ「湊」町の「湊」中学校だからすぐに港湾部に出る。陸揚げしてしまった船、電柱のずいぶん高い位置にひっかかっているがれきやゴミ。すけすけに壁を抜かれてしまった水産工場など。


 別にどこへ行こうという明確な指針などなかったのであるが、とりあえずそのあたりから遠くへいける道が女川方面へ行く道しかわからなかったので、そちらへ道をたどる。


 渡波(わたのは)地区の道の両側とも壊滅状態のところを走る。学校がある。避難所になっている。しかし一階は完全にやられている。さらに進む。すると徐々に被害が少なくなってきた。


 海沿いに出る。ほんとうに被害がない。海沿いを走っている線路がまったく無事である。すぐそこに波打ち際が見える小屋のようなものこそ、やられているが、壊れている家がない。後でわかったことだが、右手に見えているのは確かに海であった。ただし、巾着袋のように湾の入り口がぎゅっとすぼまった地形のために、外海に面したところがほとんどなく、最小の被害ですんだらしい


 五月になってから、「万石浦(まんごくうら)」というこの内海で養殖されていた「たね牡蠣」が無事だったという報道を見た。牡蠣の養殖というのは、このたね牡蠣を購入して、それぞれの養殖地で、ブイ(たると言うらしい)で浮かべた養殖いかだからロープで海にたらし、2年ほどかけて成長させるものらしい。


無事だったという分量が果たして被災地の牡蠣養殖が復活するために十分なのか、不足気味なのか、全然足りないのかはわからないが、少なくとも「たね牡蠣も壊滅・養殖復活の手だてなし」よりはましなのである。


 そのころは、沿岸部の地形などまったく頭に入っていないころなので


 「いやあ、沿岸部でも被害をあまり受けてないところもあるんやなあ、良かった良かった」


と採澤くんと二人喜んでいたのである。


 万石浦をすぎると、半島を横切る形で逆側の海側、女川港方面へ出る。万石浦を離れると、峠というほどでもないけれども、道は徐々に「上り坂」になる。ここで津田も採澤君も理解不能な情景に思考停止・意味不明に陥った。後に続く自動車もないので、ゆっくりと沿道の状態を見ながら走らせていたのだけれど、坂を上がるとともに、どう見ても「津波の被害」としか思えないがれきや泥が沿道に現れたのである。もう一度言います。沿岸部を離れて徐々に坂を「上って」いったら、がれきや泥が現れたのです。


 「何で、えっ、何で????」


 「今、坂を上がってるよな」


 「上がってます」


 「あれ、津波の後やんな」


 「どう見ても、そうですよね」