新旧ボランティア交流会/連載16回

meuto2012-04-21

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今日は有人さんの被災地写真展の流れで、ボランティア経験者がせっかくだから集まりましょうの会。


聞いていたのは8人だったけど、コージやトミーさんが急遽参加してくれて11人。


合計11名が参加。多くは初期の南境生活支援センターをねぐらにしたり、風呂に入りにきて知っているとかいうメンバーで、そこに今の市内の拠点で活動しているつっくんや先日行ったところの長男ひろきなども合流しての老若男女遠近新旧入り交じっての交流会。


ということで、各自の滞在時期などをホワイトボードに書き出して始める今日の飲み会。



人というのはあまり強いものではなくって、自分の意思だけでやれる人が1割(か2割)で、何がどうあってもやらない人が1割(か2割)で、残りの6〜8割の人はきっかけや環境次第でどちらへも転がっていく。


ボランティア活動だって、続ける人が増えるか減っていくかというのは紙一重なんだと思う。一気に増え、みるみる潮が引いていく。


こうやって集まり、情報交換近況交換最新情報などを耳にすると、次に出動するハードルが低くなる。人を誘いやすくなる、地元でできる支援の形が分かったりする。


今日も、浅やんから八百屋の出口さんの5月の復興支援イベントの出店の話を聞いて、「あっ、その日程なら顔を出せるかも」というのがあったし。(近づいたらまた情報をアップします)


有人の冠になっている「変態」という枕詞の本意は「変人だけどとても優れた人」という意味だったと今回知るが、同じぐらい普通の変態だということも知る。あ、ヒロベーもこの会では「もっと変態」ということになってしまっているので、次の機会にはぜひ出席して汚名をそそいでください。


火曜日か水曜日にはなかこ姐さんが来阪の予定。また他にも誰かと会えますかね。


 ※写真の中のハートマークは、コージがソジンちゃんと出会っためでたい日です。


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2011年4月3日


「連続する偶然 後編」



橋を渡って明友館へ。市民会館のすぐ北隣にあるここは200人規模だと聞いていたけれど、施設規模自体はそれほど大きくない。


 代表は千葉さんという。痩身・革ジャン・リーゼント・口ひげ・くわえたばこである。キャロルをおじさんにしたような風貌である。(革ジャンではなかったような気もするが記憶にある千葉さんは革ジャンのイメージである)


 あくまで噂であるが、元は暴走族ないしはそれに準ずる団体の上の方の人だったという。噂である。しかし、現在は避難所の行動隊長である。総長である。(実際に『隊長』と呼ばれていた)


 千葉さんの活動のユニークなのは他の追随を許さない?玄関にずらりと関東ナンバーのスーパーカブのようなバイクが並んでいる。元職(?)を生かした「救援物資バイク便」である。がれきや道路の崩壊で車では救援物資が届きにくい沿岸部・半島部の僻地などでも、車でだめでもバイクならば可能なところはある。どうやって資金や物資を調達しているのかは謎だけれど、西に食料がないと聞けばバイクを走らせ、東に燃料がないと聞けば燃料を届ける。宮沢賢治の詩のような活動をする千葉さんチームである。後述する北上の大指林業センターも、ここの支援範囲だったようだ。


 そういう活動の裏支えになっているのが、昔やんちゃをしていた時の「反社会的活動時人脈」だ。(噂である。あくまで噂である)


 数日後に計画している「岩手県陸前高田方面訪問」に関して道路状況などをお聞きすると、1〜2本の電話でたちどころに最新情報が得られる旧・反社会的活動時人脈であった。(噂である。あくまで噂である)


 お昼過ぎまで、整体・鍼灸など活動する。昼間だということもあって、在室する人の数はたいして多くないから余裕の施術である。しかし、前記したように「災害時のバカ力(ばかぢから)」のようなものは確かにあるとまたまた実感した。脳梗塞の後遺症で腕が上がりにくいという方を二人で施術した(誰が一人が担当したのち、仕上げを他に任されたようなチームプレー)。すると、よく腕が回らなかったという腕を大車輪に回転させるようになった。さらに少し書くとつらくなるという文字を書くという行為が、すらすら書けるようになった。その男性は、感動してその試し書きをしたメモ用紙をくれと言う。そこに日付を書いてくれ、記念品にするからと。


 被災地は大変だ、というのは紛れもない事実。だけどその体の内側には、対抗する力がぐいぐいと圧力を増しているんだ。そこにほんの少しの気の利いた他者からの働きかけががあるとき、その力は放出されて形になる。復旧・復興活動とそれを助けたいとするボランティアたちの間にも、きっと同じ見えない力があると確信する。
 


 昼ごろになって「炊き出しが来ているよ」と部屋内で声をかけ合っている。家族の分の「たきだしうどん」を取りに行く娘さんがある。整体も一区切りついたので、余裕があるようなら食べに行こうかと階下へ降りる。


 こういう話を書くと、「ボランティアというのは自己完結ではないのか、被災者向きの炊き出しを食べるなんてボランティアのルールに背いているのではないか」と「聞いたことのある話」を元に怒る方もあるかもしれない。


 おっしゃる通りである。ボランティアは本来自己完結であるべきだ。私の持参しているものの中には干し芋やら菓子パンやら昼食の用意はある。私が言っているのは「余裕があるなら頂く」である。被災者に足りないなら食べはしない。だけど、炊き出しで残っても困るのも事実である。特にうどんなんかは明日に使い回しはできない。そうでなくても電気は来てないから冷蔵保存はできない。炊き出しする側だって「完売御礼」の方が気持ちがいい。昼の炊き出しなら昼で完食されて、撤収できる方が時間のロスもないのである。余裕があるかどうか確認して、あるようなら喜んでいただく筆者である。


 炊き出しうどんを一階のロビーで頂いていたら、家屋内泥出し部隊の小チームのリーダーらしき女性が入ってきた。
「あの〜、被災者じゃないんですけど、頂いてもいいんですか?」


「十分に用意してますから、大丈夫ですよ」


「じゃあ声をかけてきます。ありがとうございます」


 しばらくしてその女性だけが帰ってきた。他のメンバーは長靴の泥でも洗っているらしく、先にうどんをすすっている。炊き出しのうどん屋さんが話しかける。


「どちらから来られたんですか?」


「鹿児島です!」


 鹿児島ねえ、確かテラルネッサンスさんのミッションで、石巻にラジオを届ける作戦の、メインでラジオを集めてくれたのが鹿児島の人だったなあ。と思いながら、その女性の胸に貼られているガムテープの名札を見る。大きく「みゆき」と書いてあって、その上に小さく名字が書かれているようなのである。たしか鹿児島ラジオ収集部隊のメインの人もみゆきさんって言ったけど、まさかここで会うはずないよなあ、と思いながらさらに胸もとに顔を近づける。そこには小さく「橋の口」と書かれていた。


テラの鬼丸さんのメールで見た名前って確か橋の口みゆきさんだったような…。


 「あの…、ラジオのみゆきさん?」


 みゆきさんにすれば、あっちの方でうどんをすすっていたおっさんが、いきなり近づいてくると、顔を見ないで胸を見て(言い訳 顔は知らないんだから名前を書いてある胸を見るしかなかった)いきなり「ラジオのみゆきさん?」と声をかけられたので、訳が分からなかったらしい。困惑するみゆきさんの顔に言葉を足して言い直す。


「鹿児島で石巻向けのラジオを集めていた橋の口みゆきさんですか?」


「はい、そうですけど??」


「私、そのラジオをテラルネッサンスで預かってここまで運んできた津田です」


「あ〜、津田さん〜」


 おもわす手を取り合って初対面をよろこぶ二人だったのである。


 最初のお仕事は、ラジオを集めて石巻に届けることだったので、出発から到着までは、輸送状況を鬼丸さんとみゆきさんには再々メールで送っていたのである。だから面識はなかったけれど、みゆきさんにしたら確かにラジオを託した人として記憶には刻まれていたのである。


 ラジオプロジェクトの時には、鹿児島の人だと思っていたので、まさか現地で会うなんて思ってもいなかったが、偶然選んだ避難所で、みゆきさんもたまたま泥出しに来たのが明友会の近所だったという次第で、偶然のたまたまの炊き出しに出向いたから会ったのだし、炊き出しのおじさんがどこから来たかと尋ねなければ分からないままだったかもしれない。しかし、こういう偶然が頻発するのが被災地なのである。


 その夜のNPO連絡会の全体会が終わって、各分科会に分かれて打ち合わせをしていた時の話。採澤君に電話があり、しばらくふむふむと相づちを打っていた彼だったが、


「ああ、そこやったら今日のお昼に行ってきたで、ほなさいなら」


と電話を切った。何の電話だったかと話を向けると、知り合いからの泣きながらの電話だったという。


 「採澤さ〜ん【号泣】、僕の知り合いが【号泣】石巻で避難所のリーダーをやっていて【号泣】必死に物資を配送したりして【号泣】がんばっているんですけど、【号泣】僕は東京を動けなくって、何もできないんです【号泣】。採澤先輩、石巻にいるんですよね、僕の、僕の分までがんばってください、そして知り合いを助けてください【号泣】知り合いというのは、千葉さんと言って【号泣】明友会という避難所でリーダーをしているんです」


「ああ、そこやったら今日のお昼に行ってきたで、ほなさいなら」


 いつもはいない神様も、こういう緊急時に立ち上がって活動している人の上には舞い降りるんじゃないかなと思う津田であった。それにしても、こうやって文章にするとなかなか感動的な話だが、端で見ているとまことにあっさりした沈着冷静・採澤君なのであった。


 ちなみに、この日「祥心会」の方には採澤君が赴き、筆者は湊小学校に向かった。整体初お目見えの祥心会では「整体受けたい人〜?」と聞くと、次から次へと手が上がり、採澤君午後だけで連続35人整体という連続施術自己記録を樹立したとのことだった。


 私は、湊小学校に行き、おなじみになった「5年1組」にとりあえず顔を出すと、


「先生、今日は朝10時から整体に来ると言ってたから、体育館の方に行って10時から待ってたんですよ」


「いえいえ、どうもすみません、あれこれ調べることもあって」


という具合に歓迎され、予約を心配することもなく、着々と整体できるようになっていたのでありました。でも、これを最後に湊小学校には行けていない。腱鞘炎のあの人、腰痛のあのおじさんなど気になっているのだけれど…