ボランティア記録 連載19回

4月6日 岩手方面を短期視察 


津田・採澤・渡瀬の「岩手方面隊」は朝のミーティングには出て、三陸道・東北道と北上し、遠野を経由して釜石。海岸線を南下して今日中に陸前高田入りして、みんつなさんとお会いしようというアバウトな作戦で出発。


 東北自動車道を走っていて感じるのは、福島でも宮城でも岩手でも、もっと山だらけの平地のないところかと思ったけれど、道路の左右はほとんど広々とした地域ばかりで、北海道と同じとまでは言えないけれど、実に見晴らしのいい美しさだった。その広々として平地(なだらかな起伏)の向こうに高い山が美しい姿を見せている。


 地震の被害も高速道路が段差が多いぐらいで、後は自衛隊の車両とやたらすれ違うことをのぞけば、被災地にいることを忘れるぐらいである。


 被害がない街を走るのは気が楽だ。どうせ被災地の現場に行けば落ち込むというか滅入るというか、普通じゃいられないのは分かっているので、移動中の車内というのは、都会生活の時以上にハイテンションになり、冗談がとびかい、不謹慎な言葉を交わし、放送禁止用語が乱れ飛んだりする。ふだんなら考えないようなことを考え、発言する。


 岩手県は広いのである。石巻から釜石まで北上してといっても、岩手の南北の半分ばかりを北上するだけである。それでも高速道路でずいぶんと時間がかかる。また東北道から沿岸部に向かう道がまた遠い。今はたくさんのトンネルがあるけれど、トンネルがあるところというのは、トンネルができるまでは、峠を越えなきゃいけない山越えの道であったわけだ。


「おい、東北の大名はこんな遠くから江戸まで参勤交代せなあかんのか」


「こんな山奥からご城下まで年貢米を運んだんやなあ」


「船は以外は人力やろ」


 ご先祖様たちはすごいのである。


 そして参勤交代で歩けば何十日もかかる道のりの沿岸部が、軒並み津波の被害にやられている今の現状を思い、その救援支援必要地域の大きさ広さにぞっとするのである。


 それを振り払うようにまたジョークを連発する関西出身の津田・採澤である。
 


 渡瀬さんは、二人の関西人のようにジョークは連発しないし、不謹慎な発言はしない。その変わりにどういう人生でアメリカで開業するに至ったかなどはたっぷりと聞くことができた。


 渡瀬さんは、55歳。前にも書いたがアメリカから駆けつけた日本人鍼灸師である。スイス人の奥さんと中国で知り合って、後に渡米。今はニューメキシコ州で開業している。言葉に少しなまりがあるのは、よく聞いてみると英語なまりなのである。
 

 渡瀬さんとの出会いは、毎夜定例のNPO連絡会議の時。初参加者の自己紹介をした時に、渡瀬さんの言葉を津田は「青森の針屋です」と聞き、採澤君は「青森のカレー屋です」と聞いた。


 津田は「整体チームのメンバー候補のようでもあり、違うようでもある」と思い、採澤君は「湊小学校のパキスタンカレーの次は、青森のカレーの炊き出しが食えるな」と思ったのである。


 正解は「アメリカで鍼やってます」だった。


 ふるさとは遠くにありて思うものなどと言うけれど、遠くアメリカの地で生活することで、日本を心配する気持ちというものは倍増するのかもしれない。


 一緒に釜石、大船渡、陸前高田岩手県の沿岸部の被害を見て回っての夜、渡瀬さんは眠れないで泣いていた。悲しくて勝手に涙が出てくると。


 それにしてもアメリカという国はよしも悪しくもやることのケタが日本人とは違うようである。なんとこの渡瀬さん、今後当分隔週で被災地入りをして鍼灸で救援活動をすると決め、しかもこの5月まで実行しているのである。航空機チケットは8月以外は年末まで押さえてしまったらしい(5月末現在で)


 アメリカというところは寄付文化が盛んらしい。渡部さんが来日するにあたって、奥さんがフェイスブックの渡部さんの被災地救援活動のページを立ち上げて送り出した。


 来日以来、渡部さんは一日三回は奥さんに電話をしている。時差があるから早朝深夜である。


 石巻でお寺の方が一時期本堂横の小部屋を宿舎として提供してくださっていた時期があった。三人ともそこに泊めていただいた。


 早朝に目覚めると本堂の方からもぎょもぎょとした声が聞こえる。ご住職のお勤めかと思い静かにしていた。しかし、どうも経文には聞こえない。どう聞いても英語である。ここのご住職は、毎朝本堂で英会話講座を聞いているのかと頭の中が「?????」でいっぱいになったのだが、実は奥さんに電話する渡瀬さんだった。(室内がまだ暗いから、渡瀬さんがいなくなっていることがわからないのである)


 それまで渡瀬さんが奥さんと話をする姿は見ていたが、たいてい少し離れたところに行かれるので、実際の会話が聞こえてきたのは初めてだった。


 一日に二回も三回も電話しないといけないなんて外国の奥さんを持つと大変だと思っていたけれど、実はそれだけではなかった。前記したフェイスブック。奥さんは渡部さんからかかってくる電話をメモして、英文の活動報告にしてフェイスブックにせっせとアップしているのである。そして、「渡瀬を日本へ行かせよう基金」のようなものができて、フェイスブックの読者からせっせと寄付が集まり、その裏付けがあって「隔週でアメリカから日本へ救援活動」という一見無謀な試みが成立していのである。


 つまり渡瀬さんは一日二回ないし三回「アイラブユー」を言い続けてるのではなく、今日誰とどういう町にはいって、そこはどういう状況で、どういう活動をしたのか、ということをせっせと海外に打電しているのである。その電話の長さと頻度の多さを考えれば、もしかしたら渡部さんのフェイスブックの記事が、世界で一番詳しい現地報告である可能性も考えられる。


 渡瀬さんの英語は、やはりネイティブのようにはいかないだろうから、その微妙なニュアンスを被災現場を見ていない奥さんが編集した記事内容は、いったいどういうずれを生じるのかがやや不安である。


 被災地で活動する整体チームのリーダーは、200年前の参勤交代や年貢米の運搬のことばかりを心配しているなんて書かれても困るんだけど。