ボランティア記録 連載20回

4月6日 岩手方面を短期視察 後編 


10時に石巻を出発した「岩手視察組」が釜石の街に入ったのは3時頃だった。市役所や災害対策本部にも寄っていきたかったが、それをすると今日中に陸前高田の「みんつな」メンバーに合流することができそうもなかったので、思い切って沿岸部は国道沿いを通過するだけにとどめることにする。


 しかし、細かく見る必要がないという言い方をしてしまうと反感を買うかもしれないが、岩手県リアス式海岸の釜石〜陸前高田間の沿岸の街や集落はすべて悲しいほど同じ景色だった。


 津波が洗った後はほとんど何もない。壊滅。津波の到達点よりも高いところは現存。リアス式海岸の特徴として、平野部の少なさが上げられる。小さい漁村部などはすり鉢を二つに割ったような地形だ。国道沿いの漁村部は、どこも同じで津波のラインまで消滅している景色ばかりだった。


 大船渡に着いたのは夕方4時半ごろ。平野の少ない地形の、その中でも平野部が大きいところが都市として発展した。それが釜石であり大船渡であり陸前高田だ。


 大船渡は、縦に細長くがれきと化していた。その位置に残っている建物は多いかもしれない。だからといって、補修して住めるというものではない。国道から津波エリアに入ったところは、ちょうど線路のあるところだった。線路があるはずのところと言った方が正しいかもしれない。


 さらに南下していく。夜の6時を回って、陸前高田の街を見下ろせる高台まで出てきた。薄明かりで街の全景は分からないのだが、陸地のエリアのはずの部分に、月明かりが反射したような水のエリアがある。潮が上がって水没している地域のようだ。その薄明かりの中におぼろげに見える「元・陸前高田市街地」には、大船渡で見たようながれきさえ見あたらないようなのだ。


 みんつなの佐藤さんとはなかなか連絡がつかず、結局細かい打ち合わせのないままに陸前高田入りとなった。


 とりあえず国道を海岸線まで降りて車を停める。目の前に4階部分までが津波で窓やサッシがぶち抜かれている6階建ての集合住宅が二棟、ヘッドライトに浮かび上がっている。見上げる高さまで水が上がったのだ。その集合住宅の周りは、何も見えない。おそらくたくさんの家屋があっただろうエリアなのだが、車のライトに照らされたエリアはがれき混じりの砂地である。がれきさえないエリアで、ここまで広範囲に被害が続く地域は見たことがない。実際にそれが明確に分かるのは翌日であるが、この時は車のライトが届くエリアの向こうに、どう目を凝らしても何もない気配によけいに決定的な無力感を感じたのだった。



 地元のジャーナリストの佐藤さんが立ち上げた「みんつな」。佐藤さんは震災当時アフリカを取材していた。実家は流失。何かできることをやらなければというので、●●さんと共同代表で立ち上げたのが「みんつな」だ。


 今日は、関東から被災地入りする6〜7人の学生が、拠点の陸前高田の自動車学校の宿泊施設に入る日だ。そこに合流して顔つなぎと情報交換というわけだが、宿泊も何とかなるだろうと思ったが当てがはずれた。


 その宿泊所というのが、なんと地元信用金庫の仮店舗になっており、またみんつなさんがお借りしている部屋以外は警察の宿舎になっていた。佐藤さんも宿泊できるようにと自動車学校の社長さんに連絡をとってくれていたらしいが、残念ながらコンタクトできず、簡単な情報交換の後は撤収ということになった。


 国道沿いに開いていた大船渡のラーメン屋も、とって返した頃にはすでに店じまいしており、やむなく海岸沿いの海産物お土産屋さんの広い駐車場で野営することにする。


 採澤君持参のコンロで湯を沸かし、カップラーメンなどで夕食の準備をしていたら、同じ駐車場に停まっていたミニユンボを積んだトレーラーから、一人のおじさんが降りてきた。


 てっきり工事関係の人が時間調整か何かで停めている車かと思ったら、まったくの個人ボランティアだという。

 
 京都の山間部にお住まいだそうで、自分の手持ちの機材できっと役に立てることがあるはずだと、トレーラーの上に京都のおいしい水、灯油、軽油、ガソリンを積み、クレーン装備の車に、さらにミニユンボを乗せ、「これがあれば、少々の鉄板でも紙をはさみで切るように簡単にきれるで〜」というプラズマカッターという最強兵器までを積んでいる。
 

北のほうまで一気にいって


 「活動できるところを探して降りてきた」


らしいが、ここまでさほど活躍の場はなかったらしい。確かに、このあたりから北は「津波の被害で後は何もない」か「津波をかぶらず被害がない」の両極端に振れているから、トレーラーに積んだ装備の数々もあまり活躍する場はなかったかもしれない。


 このおじさん、名刺が見つからないのでフルネームが紹介できないのだけれど、確かなことは「貞」がつくお名前で、頂いた名刺には


・・・・・・・・・・・・・・

あなたの思いを形にします

「サダテック」 ○○貞夫

・・・・・・・・・・・・・・


なんて書いてあった。もちろん今回のボランティア用の急造名刺で、肩書きもその場の思いつきらしいが、しゃれているじゃないか。


 貞おじさんとは、結局そのまま駐車場で酒盛りとなる。(私は下戸ですが)貞おじさは、やはり阪神大震災の時から重機を使ったボランティアをされていたという。石巻にも多くの「ガテン系ボランティア」とお会いしたが、貞おじさんほどいろいろと多角的な重装備のボランティアは初めてである。


 酒盛りはそこそこに切り上げ、津田は駐車場で、採澤君と渡瀬さんは車の中で寝る。下に銀マット、また上にもかまぼこのように銀マットドーム?をかぶせて風よけにするとさほどけっこう寒さをしのげるものだとわかった。