連載21回 陸前高田と最大余震・震度6
朝、さすがに寒い。車に積んであった七輪に持参の木炭で火をおこして餅を焼き、あんこを溶かしてぜんざいの朝飯。貞おじさんも参加。アメリカン渡瀬さんは、もちろん大喜び。炭火焼きの餅はやっぱりうまいねなんてやっていたら、地元の人が三々五々駐車場に集まってきた。なんだろうと思っていたら自衛隊の給水車がやってきた。
切れ者採澤君の提案で、車の空いているスペースには、積めるだけの救援物資は積んでいきましょうということで積んだ物資がけっこうある。給水車の横に段ボール箱を並べて救援物資臨時朝市を決行して大好評。
この海岸線で津波を浴びなかった家はもちろん被害はない。電気は通っているが水は来ていない。しかし釜石以南の沿岸の都市部はすべて壊滅しているから、このあたりから買い物に出ようとすると一時間はかけて内陸部の町まで出かける必要がある。しかもガソリンもようやく出回り始めたぐらいだから、そうそう買い物にもいけない。だから、この物資でも本当にありがたい、という。
朝市を終えて陸前高田へ再出発。ここで貞おじさんとも別行動となる。貞おじさんが活躍できそうな現場があったら連絡をしますということになった。翌日に採澤君が電話してみると、仙台で活躍しているらしかった。
陸前高田の自動車学校のすぐ近くに社会福祉協議会=ボランティアセンターがあるのでそちらへ訪問。地元社協の職員の方に、全国の自治体からの応援メンバーが加わり、さらに大学生のボランティアが参加してさほど広くない施設の中は20人ほどの満杯である。
すでに石巻で整体チームとしての活動をしていることもお話して
「すいませ〜ん、この中で一番くたびれている方を教えてください」
と声をかける。普通役所の勤務中にデスクの間に入っていってマッサージを始めるというのはありえないのだけれど、このころの被災地では違和感がなかった。
するとこの人が一番働いている、お疲れだというのは衆目が一致するようで、「○○さん、受けるべ」という感じでおひとり選出される。とりあえず座ったままで肩のあたりに触れていき、実は腰が…というような話になると
「じゃあ、本格的にいきましょう。マット敷きますからうつ伏せになってください」
というので、次々に押さえていくというような流れである。繰り返すが、誰一人「勤務中に何事だ」というような目を向ける人はなかった。想像するに、多くの職員もまた被災者である自治体で、整体ボランティアをまったく自然に受け入れる背景には、大げさに言えば「誰も倒れないでくれ、誰も体を壊さないでくれ」というような思いがあったのではないかと思う。それで少しでも元気が回復するのならどうぞ受けてくれと。
採澤君も渡瀬さんもそれぞれ開始だ。
鳥取から応援に来ている森本さんが話を聞いてくれた。鳥取県西部地震の支援活動をしている方で、被害の状況や、今後の見通しなどを教えてもらう。その話の中で出てきたのが「県外者の有名被害スポット」の写真撮影の話である。
大きな建物の、象徴的な被害を受けたところは、テレビや写真で繰り返し使われる。あたかも観光スポットのように。そしてそういう場所に行った人が、それをバックに記念写真をパチリ。これが被災者にはたまらないという。もしかしたら、そのがれきの下に行方不明の家族の遺体があるかもしれないその場所を、観光名所のように写真撮影して、これ以上被災者の心を傷つけないでほしいと思うと。
それ以来、ほとんど写真を撮らなくなった筆者である。この写真についてはこの後もいくつかのお話が登場すると思う。
整体の訪問先を職員の方が探してくれたようである。11時になると、消防団が遺体捜索から休憩に上がってくるから、
「いっちょもんでやってくれ、疲れてっから」