連載27回 被災地の写真撮影について

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■■東日本大震災ボランティア活動記録■■


「本業でボランティア」


連載27回目


4月16日 被災地の写真撮影  

 
 今日は大阪からタッチ・イン・ピースとプレジャーサポート協会合同チームが来る。大阪の平松さんはコンピューターに詳しく、そのあたりの関係で中古のパソコンを石巻の現場に送ってもらったり相談に乗ってもらったりと後方支援して頂いている方だ。タッチ・イン・ピースとプレジャーサポート協会の両方に関係しているらしい。しかし、こうやって活動していると、自分の知らない「人を助けたい」という団体がこんなにたくさんあったのかとびっくりする。


 メンバー全員が関西ということではないけれど、それにしても自分の地元からのボランティアを迎えるというのは嬉しいものなのである。


 さらに道場の会員でもある島ちゃん・島崎雄次郎さんも一緒だ。鉄工所の若大将である。中学生のころはそうとうやんちゃだったらしい。高校には進学したが、いろいろとあって一ヶ月で退学。翌日部屋で寝ていたら、親父さんに「パジャマのままえり首をつかまれて工場(こうば)へ連れて行かれ」(本人談)、そのまま「タコ部屋のように強制労働で」、今は立派に跡継ぎという経歴である。神道に近く、熊野の火祭りなどは毎年参加している彼である。震災後、すぐに熊野の神社へ飛び、神様に文句を言ったという熱血漢である。


 仕事のかたわら、箕面市の救援物資の仕分けなどをしつつ、私が被災地入りをすると聞くと「できることがあったら何でもやります」と連絡してきてくれた島ちゃんである。事実出発前の準備で忙殺されていた時期に、遠征用の車を滋賀県まで取りに行って、大阪まで回送してくれたりしてくれたのである。


 その島ちゃんもこのチームの一員として「雨合羽・長靴・手袋などを身長サイズ別にセットしてリュックサックにワンパックしたもの50セットとか、一輪車(手押し車ね)50台とかスコップ50本などを満載して(物資の数はメモが見あたらないのでちょっと違うと思う)」徹夜で走ってやってくるという。


 タッチさんとは、今日は一緒に活動するのだけれど、島ちゃんとは活動内容が違うし、宿泊場所も違うので会えるかどうかわからなかった。


 ところが、蛇田中学校組を送り届けて大学に帰ってきて、専修大学の駐車場をそろそろと走っていたら、物資をおろしている最中の島ちゃんと遭遇、がしっと握手。プレジャーサポート協会の馬場さんともとりあえずひしと抱き合う。(初対面なんだけど、もう嬉しくってそうなるのである)


 タッチ・イン・ピースのメンバー10人少々、青葉中学校に向かう。今日は朝から送迎と電話応対だけで怒濤の忙しさだった。タッチのメンバーは、とても訓練の行き届いた雰囲気なので、こちらはあえて整体には入らず、タッチのメンバーにまかせてしまう。詳しくは知らないのだけれど、タッチさんは広島の被爆者の施設に訪問して体のケアをするというような活動をされているそうだ。


 大阪から車で往復。徹夜で走ってきて時間節約しても今日明日しか活動できない。明日は女川で活動することになっているので、青葉中が終わったら、この近辺の被害を見てもらうことにする。休憩がてら中屋敷方面を車で下見に行く。


 大街道とか中屋敷とか、朝夕のミーティングの時にくり返し聞く町名だ。かろうじて人が住める家もあるというぐらいの被害からがボランティアの活動対象になる。なんとか住めるようにするというのがお手伝いの対象になるからだ。きれいさっぱり何もないという現場もショックだが、家がまだそこにあって(流されていない)元の街が想像できるのもまたどれほどの被害かがリアルに入ってくる。


 中屋敷界隈をゆっくりと走る。道路のヘドロは取り除かれているから、家屋の敷地のヘドロとか段差になって、30センチ〜40センチのヘドロの堆積層の厚みがリアルに分かる。


 ちょうど同じ南境生活センターで顔なじみの「ユニック鈴木」さんが、片づけをしているところと出くわした。ユニック車というのは、クレーンのついた大型車のこと。ユニックさんは山仕事が職業らしいが、チェーンソー・アートの名人でもある。丸太をチェーンソーで彫刻してしまうというあれである。春休みからGWというのは「各地でイベントがあって稼ぎ時だけど、イベントが中止になったり、こちらからパスしたりで無職ですよ」と苦笑する。


 3月〜4月前半は、とても感じのいい娘さんを助手に活動されていて、みんなから「ホントは若い愛人だろう」とからかわれていた鈴木さんであるが、この時期は奥さんと一緒に活動していて「愛人疑惑」が払拭されていたのだった。


 とにかく津波でふだんなら移動するはずのないものが、街のあちこちに鎮座してしまっている石巻で、重いものを移動できるユニック車の活動場所はいくらでもある。被害の大きい場所は水道などの復旧も遅れているところなので、1トンクラスの水のタンクを積んで、あっちの現場へ降ろし、こっちの現場に降ろしという活動もある。


 GWに、地元の方が慰労のバーベキューを企画してくださったことがあり、その際にユニックさんとゆっくり話する機会が初めて持てたのだけど、ユニックさん一人で、道や玄関をふさいでいた自動車をつり上げて移動させた台数は「70台は下らない」そうだ。


 中屋敷近辺の片づけを担当する「人力部隊」はすでに撤収した後のようで、ユニックさんが黙々と片づけをしている。しばらくユニックさんを眺めていた。泥出し部隊が用具を洗う水を届けた後なのか、道路をふさぐ車をどけた後なのか、家に突っ込んでいる貯木場からの巨大な丸太を引っ張り出した後なのか、ただ淡々と道具を洗い、片づけている。心から「かっこいい」と思った。


 少し話をして、奥さんを紹介してもらって、青葉中に帰る。施術がまだ終わらないメンバーがあるが、もう一台の車に乗って帰れるとのことなので、こちらの車だけでも中屋敷方面を見てもらうことにする。そのあたりに住んでいた方が、避難されている可能性が高いのが青葉中学校だからだ。


 災害救援などの訓練を受けているメンバーだから、施術をしながらも被災されている方々のダメージというものは十分に把握されていると思う。だからやめるにやめられずに、撤収予定時間を超えて終わらない方が出ているのだろう。でもできれば全員に、おそらく今施術をした人たちが暮らしていた地域がどうなっているのかを見てほしかったと思う。


 同じような仕事をしているので、一人でも多くの方を施術したいと思われるのはよく分かる。しかも現地では一泊二日しか活動時間がないから余計にその思いは強くなるだろう。


 たとえば、車で来て、津波の被害がないところにある避難所で半日整体をする。その活動で10人以上の方が楽になる。これだけでも十分価値のある活動である。それがあるのとないのとを比べれば歴然である。それを分かった上で続ける。


 もう少し時間を長くとって、たとえばその方々が被災された地域の被害を目の当たりにする。すると、「10人だけでもやれた、笑顔になってくれた」という景色が変わって見えてくる。ほんとうにお役に立てたのだろうかと。さらに自分の技術やレベルも、こんなものでいいのか、もっと勉強しておけばよかった、という疑問や不満が現れる。用意した何かを手渡して終わるのではなく、用意したもののちゃんと手渡せなかったものが目に映る。やれたのではなく、やりかけたことで未完成なものを作り出したということになる。すると、それを埋めるために次にできること、次にやるべきことが見えるようになる。


 さらに活動期間が長くなるとする。ますます「こんなことがやれた」という要素よりも「これもできていない、あれもできていない」という状況が内面に生まれる。その不安定さが自分の成長のために必要なのだ。さらに活動期間が長くなる。そして、地元に帰り、以前と同じ活動をする。その時に著しくレベルアップした自分の技量と出会う。また以前とずいぶん違ったものの見え方をしていることに気づく。大事にするものが変わってしまっている。これは私が最初の3週間の活動の後で感じたことである。



 とてもリアルな話になるけれど、一ヶ月近くも道場をほったらかしにしていたにもかかわらず、毎週の新規に受けに来られる方の数は活動前よりもいきなり増えた。また新規で受けられた方のリピート率も著しく上がった。被災地に何かを提供しに行っていたはずなのに、被災地に行かなければきっと手にできなかったものをものすごくたくさん、そして深く頂いていることに気づく。


 被災地に行って、被災された方に逆に元気を頂いたというような話をよく聞くが、それが一時の気分的なものにではなく、もっとリアルで具体的な長く続くものを頂くのである。すると、そこには助けに行ってあげているというような一方的な援助というものとは違う景色が見えてくる。だからこそ長続きするのではないかと思う。




 さて、中屋敷方面に向かった車であった。車にはセラピストでない男性メンバーが二人同乗され、一人はビデオで、一人はカメラで撮影していた。せっせと撮影されているお二人に実は「ん?」と思いむっとしていた筆者であった。


 このビデオの方は、整体チームの朝のミーティングにも参加していた。陸前高田で「被災者を傷つける写真撮影はやめてほしい」という話を聞いてから、写真はまったく撮らなくなったし、整体チームのミーティングでも「写真は撮らないでね」という話を毎朝していた。だから「俺の朝の話を何を聞いとってん」という感じなのである。


 ただし、行った先は中屋敷で、人の住める状況でもないから誰も歩いてないので別に撮っても問題はなかったからまあいいかという感じだった。


 阪神大震災の時、報道される映像や写真集になった写真が、大きな建物の派手な倒壊ばかりに集中していたことに憤っていた自分を思いだしていた。高速道路の倒壊やビルの倒壊は派手だ。でも実際に神戸の街を歩くと、平屋に見えていた家が、実は二階建ての一階がぺしゃんこになった家屋で、二階についていた「○○パン」という看板が平屋の高さにあったりした。そういう「ここで人が生活していたんだ。それが押しつぶされたんだ」というような写真の少なさに「人の生活の臭いのしない写真ばかり採用するな。これじゃあほんとうに困っている人が浮かび上がってこないやないか」と思っていた記憶である。


 ただし、北上運河を渡って目につく被害がない地域に戻ってもビデオを回しっぱなしにしているのを見て、どこかがぷつんと切れた。


「朝の俺の話を聞いてないんかい!」


「あんたの撮ってる写真で、人が動くんか」


「できるだけたくさんの写真や映像をとってくるように言われているんです」


 これまた、後々に分かったことであるが、その指示をしたという馬場さんは、震災後かなり早い段階で被災地入りしている。そして、電柱に引っかかったまま無くなっている親子など、相当ひどい現場も実際に目の当たりにしている人だ。帰宅してからも、一晩中東北の方を向いて泣いていたという。だから、実際に写真撮影は慎重にということも口にされていたそうだ。


 想像するに馬場さんは、できるだけ多くの支援を被災地に送り届けたいと思っていたのではないかと思う。広い視野で、より多くの支援を募り、より多くの物資を被災地に届け、より多くの人にかかわってもらおうとされていたのではないかと思う。


 津田の方は、とにかく実際に現場で動く人を集めたいと思っていた。写真では、現場で動く人は増えないと思っていた。人は動いている人につられて動き、実際に動いた人の言葉で動くと感じていた。


 さらに言い訳を一つそえると、デジカメとビデオのお手軽さである。フィルムやテープの残量を気にしないで撮れてしまう。とりあえず撮っておいて、良くなければさっさと消せばいい、となる。だから取りあえず撮っておこう、回しっぱなしにしようと言うことになりがちである。


 この記録を書くために振り返っていて、自分だって被災地初日は何も分かっていなかったことに気づく。君たちは、地元に帰って伝える必要のある映像を漏らさず撮ってほしいということになれば、一生懸命撮るだろうと思う。


 さらに車の中からだから、よけいに地元の人の目の前ではないから撮りやすかったのかもしれない。ただし、こちらは「俺の運転している車から撮るとは何事じゃ」と思っていたのである。いろいろとこちらの勘違いの要素はあったが、やはり被災地での写真撮影は慎重にという一点はどなたであっても心得て頂きたいと思う。


 夜は専修大学で活動している「め組ジャパン」メンバーのケアなどをさらに追加したうらら隊長率いるタッチ組である。あまりに寒く強風だったので、車の中で寝るのでは寒すぎる。そこで、そのころボランティアの宿泊を受け入れて下さっていたお寺があったので、合流してそちらの方で泊まれるように手配する。


 合流してみて、ほんとに訓練の行き届いたしつけのいい団体であることがよく分かった。 てきぱきと報告を聞きとり、疲れがたまらないように栄養指導(サプリメントの摂取)の指導をするうらら隊長で、必要事項が終了したらてきぱきと寝支度をするタッチ組であった。ついついつられてセラピストのみなさん9名に、てきぱきと「痛くない整体3分コース」をしてしまった津田であった。


 万事遺漏のないてきぱきタッチ組・うらら隊長であったが、隊長の寝袋はどう考えても夏物のうすうすであった。もしかして耐寒訓練もできていてあれで十分なのかなと思ったが、ぼろ毛布を提供し、翌日いたく感謝されたので単に装備が甘かったようだった。 


【本日の活動】


  雄勝地区(車二台)

  一台は避難所のようになっている個人宅でまだ行けてないところを探してどんどん行  く。

  もう一台は、雄勝支所職員のケア。どちらも美容師付きで。

  市内 青葉中学避難所 

  夜間 大学内「め組」ケア