学校についていろいろ考えた2
世の中で当たり前になっていると、いつのまにかそのことがほんとうに正しいことなのかどうなのか検討する対象から外れてしまう。
H高校の授業で、試験がなく成績をつける必要がないという前提があるから、筆者は「願わくば全員が最高の快適さを味わい、習得の意欲がわき、習得が進み、それぞれの生活を画期的に変革していく結果を出すぞ」という方向へ進みつつあるのである。
全員が理解し、誤解せず、落ちこぼれず、苦痛を感じず、快適さを味わうにはどうすればいいのだろうか、という方向へと進みつつある。
私が数学や英語の先生だったら、そういう方向には行かないような気がする。自分の教え方が悪く生徒が理解していなくても「こいつは勉強しないからなあ」などと平気で思っていたかもしれない。
整体の野口晴哉先生が、こういうことを言われている。
「学校の先生は気楽だ。自分の教え方をたなに上げて、平気で生徒に悪い点数を付けている。僕たちは1人でも良くならなかったら、それは技術の失敗だから1人1人生命がけで診ている」
だいたいに教える内容自体が、基本的に国に決められているわけだから、工夫の余地は教え方や補助教材などに限られる。
たとえばあの時間割りだって、生徒がもっともその教科に関心を持ち、集中でき、学習効果が上がるかどうか、というようなことは前提としてまったく考えられていないと思う。
まず教科ごとに週に何回ぐらい授業をするかということが決まっている。それにしたがって教員を採用する。
たとえば、あることのおもしろみを感じ取れるところまでやろうとしたら、何かを一定期間集中してやった方がいい。一日おきに英語をやるよりも、毎日やった方がいい。文法と長文読解、リスニングなどいろいろやるよりも、最初に使い物になるレベルのものを作ってからそれに結びつけてやる方が自然である。身に付く。
しかし、そういう方法は絶対に取れない。人事の問題があるからだ。採用した先生方は年間を通じて、その専門教科の授業と学校の運営の両方をまんべんなくやってもらわないといけない。
二ヶ月集中して英語を教えてもらったら、あとの10ヶ月はやることないよ、というわけにはいかない。水曜日だけ全く休みなく働いてもらい、あとの4日はお仕事はありません、というわけにはいかない。
生徒の時間割というのは、実は教員の労務事情という面から制限を受けるということである。
私が学生のことは、お上は偉く、学校のシステムはそれなりに理由があり、そういう悪いものではないというふうに思いこんでいたので、勉強をするのも、学校の時間割のような進行がいいものだと思っていた。
そして、夏休みなど時間割のようなものを作ってやろうとして、まったく続かなかった。
今、新型方式で無計画ぶつ切り方式で仕事勉強研究家事趣味をごちゃまぜにし、多大なる成果を上げている。人生で最高のたのしさと結果の改善率である。
思い出したけれど、H高校の2回目の授業は、一週間かけて準備をし、当日の準備から開始までイベントの裏方のように進行と小道具の運用をはじき出し、また実際の授業もBGMを聞きながら何度もシミュレーションし、あたかも「コンサートのリハーサル状態」まで仕上げた。分刻みの進行表までバインダーに挟んで授業にいどんだ。
そして、実際に授業を開始して、ほぼ8分ほどで「準備してきたとおりに進行すべきではない」ということがわかり、まったく違う内容へと舵を切った。結果的にそれでよかった。
こういうことができるから楽しいのかなと思う。相手を見て、感じているとこういうことになると思う。
昨日の読売新聞に、大阪市が小学校か中学校か高校かを忘れたのだけど、土曜日も授業を復活させるという方針だと書いてあった。
まずは選ばれた5校から近々開始されるらしい。選ばれた学校の子どもたちは、その学校に来たことを心から呪い、後悔しているであろう。
授業時間を増やせば、学力が上がるというのは、一見まっとうなようで、実際の現場というか自分自身を振り返ればたぶん失敗する。
ただし、この場合の「学力」というのは「学ぶ力」ではなく、「上からしたまでの難易度を散らしたテストの正解率をがっこうぐるみで上げる」ということを指している。から、いくらかは上がるかもしれない。
でも学ぶ力が向上するとは思えない。
登校日が一日増えたことによって、学校に行くのが楽しみだという生徒と学校に行くのが嫌になる生徒と、どちらが多くなるかは一目瞭然である。