行動は変えられるが、「〇〇できない」という行動でないものは変えら

●実はなかった「身体を制御している意識」


ありもしない「身体を制御している意識」を大事にしていたのは、それが自分の支配者だと思いこんでいたからです。そこがスタートラインだと思っていたからです。


ところがそこはスタートではなかった。脳のメカニズムとしては、意識が「スタートしろ!」と思った時はすでに体はスタートしているということなのです。


目標を立て、実行を決意し、実行計画、練習計画をせっせと書きだしていたのは、それが行動をリードしてくれるものだと思い込んでいたからです。別に計画を立てたくて立てたのではなくて、実行・行動・継続をする必要があるから、そのために必要だと思って計画や決意を持ってきていたわけです。


でも別に計画を立てたり、決意決心をしなくても、行動そのものが目的に向かってちゃんと進んでいればいいわけです。必要な量で必要な質で。学生時代であればいまから日本史の教科書を読むべき場面でついついワンピースを読んでしまうから困ったわけです。


要するに計画が問題だったのではなくて、行動が問題だったのです。意識の制御をする必要があったのではなくって、行動の制御が必要だったのです。実際の行動という形があれば、それを少しずつでも目的にあったものに切ったり貼ったり削ったりして行けばいい。


●無い袖は振れない。「ない」行動は変えられない


だいたい、意識の方は自分がゴーストだからか、言うことがいちいち実体がない。前述の「日本史の教科書を読むかわりに、ワンピースを読んでいる」という場面を「勉強ができない」と認識する。


勉強以外の行動をした(たとえば漫画を読んだ)というのが実態であって、「勉強ができない」というのは別の行動をした結果生まれた状態を表現しているのです。勉強という行動がない、と言っているわけです。必要なのは行動の修正ですから「勉強がない」という「実体がないもの」は修正できません。


意識には実行力がともなっていないという考え方を受け入れれば、相手にする必要があるのは実際の行動。そして、生きている限りは人間はいつもなにかをやっているわけです。(静止だって睡眠だって気絶だって行為、行動です)その行動を、より目的にかなうような質と量に置き換えていく。近づけていく。


そういうふうに景色を置き換えてしまえれば、試行錯誤の方向性がまったく変わってきます。