誰かとコミュニケーションを取ろうとしている時の意識の線は・・・

実はダミーだったかもしれない説4


骨盤を中心とした整体の見直しを行ったため、ここ数週間、人の骨盤、自分の骨盤ともに、観察し、感じ、意識を置き、実際に動かし、動きの調整をし・・・というぐあいに骨盤へのアクセス頻度が桁外れにあがった筆者である。


すると知らず知らずに見るもの、聞くもの、考えること、徐々にそのスタンスが変わり、目につかなかったものが目につき、思いつかなかったことを思いついたりする。


7月7日の七夕の日におもいついたお願い整体。もともと非言語型コミュニケーションである「とろける整体」に、あえて言語型コミュニケーションを取り入れたものである。相手が、深く考えなくてもイエスの返事ができるお願いごとを相手に話しかけ、おおむね趣旨が伝わった時点で、(つまり内面でイエスの準備がほぼできあがったタイミング)で手を当てると、被験者はあっというまにとろけてしまうという、とろける整体における交流する力の重要性を実感をする稽古のことである。


しかし、考えてみればおかしな話である。使ったのは言語による頭部への話しかけである。言葉によるコミュニケーションで「とろけるような思い」をすることは人により、相手により、シチュエーションによってごくごくまれにあり得るだろうが、実際にとろけるという例はほぼ皆無と考えてよい。


ということは、このお願い整体というのは、言葉による情報交換コミュニケーションによって、とろける成果を促進したと考えるよりも、言葉によるコミュニケーションの裏側で密かに行われていた何かと結びついた結果、いきなり簡単に人がとろけたという結果をもたらしたと考える方が合理的である。


そんなこんな日々の中、8月月初から「自然農をしながら半農で生活できる地」を求めて旅立つ佃君が挨拶にやってきた。ので「三裕の館」(道場の向かいにある喫茶店)であれこれしゃべっていて、ふんふんそれで、へーと話が弾んでいて気が付いた。


ずいぶんとましになったと言え、人との言語的コミュニケーションがかなり苦手な佃君である。緊張する場面ではのどが詰まって話しづらくなる彼である。数年前なら、人と話す時にはしょっちゅう「んぐ、んぐ」と咳払いでのどを通していた彼が今日はスムーズに話をしている。


そういえば、その日の話の内容というのが、近況報告と言えば近況報告なのだけれども、彼が意図しないハプニングに巻き込まれたことで間接的に私に迷惑をかけたことになったことにたいする釈明と謝罪であったともいえる。話にくいと言えば話にくい内容である。にもかかわらず私は機嫌よく近況報告わざわざありがとうと聞いていたのであるが、彼にすれば極めて話しづらい側面を持った内容であったのだ。


なにゆえ、話下手な彼が話しづらい内容を話しているにもかかわらず、彼はすらすらと近況を語り、謝罪の言葉まで(別にこちらはいらなかったけど、あると彼の株が上がる)口にできたのか。また私にすれば「いわんこっちゃない」的なボヤキが出てもおかしくないシチュエーションであったが、「過ぎたことは過ぎたこと。不可抗力、なにごともあるがままでございますよ」と海のような寛容さで話を聞けたのはなぜか。


その秘密は「頭脳よりも骨盤よりの立ち位置」に変貌した私の聞き方にあった(ような気がする)。