誰かとコミュニケーションを取ろうとしている時の意識の線は・・・
実はダミーだったかもしれない説5
ようやく表題に近づいてきたようです。はい、その日の私は、佃君の顔を見て会話しているというよりも、首の「ある部分」を見て話していたのでした。意識してそうしたのではありません。そこを意識で、体で、とらえている自分に気が付いたというのが実際に近いと思います。
「今日話してて楽なんちゃう?」
「何か仕掛けてるんですか?」
「首のここんところをとらえてんねん」
それが7月17日のことでした。
その時点で私は、佃君の首のウィークポイントに応援の氣を送るような状況が、コミュニケーションを円滑にしたのだと思っていました。「視線で整体しました」というようなことですね。佃君も整体の勉強を詰めてやっていたので感受性が高いから、受ける側としても、そういうことは可能です。
そして、ここからの展開は、パチンコの玉が釘に当たってあっちこっちの釘に当たりながらどんどんコースを変えていくようにめまぐるしく展開していきました。
最初は「ウィークポイントへの愉氣」だと思っていたはずだったのが、翌日か翌々日には「コミュニケーションスポット」へアクセスしているのではという仮説になっていました。
そして20日の日曜日の夜です。8年間毎月数回かならず整体に来られている人を整体していて、なんとそれまでの時間の半分の時間で終わってしまったのです。
私が終ろうとして終わったのではなく、受けているその方が、首肩上半身足腰と動かして調べていって「もう、どこにもつかえがありません」と言ったので、ほぼ終わっているとこちらにもわかったということでした。
17日以来、整体をしながら、できるだけ繰り返しコミュニケーションスポットにアクセスするということを明確に始めたのがこの日の整体でした。
それ以後の整体は、田舎の運動会状態です。意味がわからないですね。地方の運動会は地域の大切な行事なので、住民の方がこぞって小学校に出て来られる。
今まで整体に参加していなかった私の身体の中のいろいろな部分が嬉々として整体に参加しているという感じです。そして、子どもの頃の海水浴。好奇心に満ち満ちて、全身全霊で遊んで、からだ中全部使って、ひっくり返って寝る。あれに近い感覚です。
これは使える!使わない状態は考えられない。じわじわじわじわと持続的な変化が続いているその後なのであります。