391話 うれしい一日④

そして、定刻。内田師は突然現れ、コンマ数秒の挨拶の後、脱兎のごとく入室された。Fさんと筆者は、教室の後ろの端っこで邪魔にならないように聴講すべく教室の後の入り口から入室しようとして・・・満席であることに気づいた。入れないのである。唯一空いているのが、ど真ん中、ど真ん前のみ。

おお、なんという幸せ。

聴講生としてはあるまじき非礼ではあるけれど、他に席が空いていないんだからしかたがない、という大義名分の元に、内田樹師VS釈師のドリームマッチを、特別リングサイド席で拝聴する。

神戸女学院学生のみなさまには、この場を借りて心よりお詫びを申し上げる次第である。厳しい受験戦争をくぐり抜け、安かろうはずのない私学の学費をお支払になったみなさまにこそ、この席に座る権利はあるのでございます。次の機会があったら、隅っこに行きますね。

手を伸ばしても届かないけれど、マジックハンドなら届きそうな間近に見る内田師は、角川春樹さんから野心を知のかみそりで削ぎ落としたような風貌で、ぎらぎらという感じではなく、スパスパという感じである。(わかんないよね、これじゃ)

講義は「現代霊性論」という。内田師と「インターネット持仏堂」を共著された釈先生とのダブルキャストによるぜいたく講義である。

近代、日本には3度宗教ブームが起きた。幕末から明治、大戦後、そして1980年代である。今につながる1980年代は、それまでの信心・信仰とは趣が異なる。オウム真理教やカルトなどを生みだし、それまでの「御利益宗教」とは異質である。それはいかなる時代背景によるものなのか、というあたりを釈先生が「基調講義」をされる。

後半は内田師との対談的進行になる。非常に面白い。

筆者は思った。大学というのは、20歳前後の若僧の行くところではない。大学というところはおじさんおばさんが行くべきところであると。

今回の内容が特に「現代史」とでも言うべき流れになっていたせいもあるが、講義の背景になっているものは、自分が「がきんちょ」から今日まで歩いて来た道の景色である。

その講義の全てを記する力量は筆者にはない。しかし、釈先生と内田師のかけあい講義の中で、「後の百太郎」や「恐怖新聞」を描いた漫画家「つのだじろう」氏が、結果的には日本における新新宗教勃興の影のフィクサー、仕掛け人ではないか、というおそるべき結論を導きだし、終了となった。


講義内容ではないけれど、印象に残った感想を一つ付け加える。

筆者はなんせ最前列最中央席に位置していたものなので、受講される学生のみなさまの様子というのは、ほとんど目には入らない。したがって音声ならびに背中で感じる「気配」によるものであるけれど、

「気がつけば90分の間、ただの一度も私語を耳にしなかった!!

もちろん、いびきの音も聞こえなかったし、居眠りしてイスから落ちる音も耳にしなかった。弁当をかきこむ音もなければ、お茶をすする音もなかった。

まさしく「授業」が行われていたのである。ものすごく当たり前のことだけれど、最近は当たり前のことが崩壊しているので、非常に新鮮に感動した筆者だったのでった。

前半部でやたら「高級感・高級感」と書いたけれども、それだけではなく、知の香りもまたふんだんに満ち満ちた神戸女学院・文学館・2階教室であった。