入力情報の話

厚底のスポーツシューズで、たいへんにクッションが効いていて、しかも底がフラットではなく丸くなっている、というものがあるらしい。


バランスの悪さを生かして、ただのウォーキングの運動負荷が高まっていいですよ、ということらしい。


昔のスキーで膝の靱帯を痛めていた方が、それを履いて(もちろんいいと思って)しばらくしたら、膝が激痛で立っていられないほどになった。


スポーツシューズの広告では「クッション性にすぐれた」とか「衝撃をやわらげる」っという歌い文句が目に付く。


なるほどそうか、よさそうだと思ってしまう。


私が最近愛用しているのは、大工さんシューズである。素材や底は地下足袋と同じもので、形状はカンフーシューズである。ひたすら薄い。クッション性はほとんどない。「たびぐつ」「玄人」「寅さん」「健さん」「大棟梁」などのブランド?がある。おまけに1000円以上のものを見たことがない!安いものしかない。380円というものさえあった。


履きはじめはそのクッション性のみじんもない薄い靴底に「アスファルトの地面って固いなあ」と一歩ごとに衝撃を感じたのは確かだ。そのことを今日思い出して足元を感じてみたら、まったく衝撃はなかった。


足の裏が丈夫になったかなと思って歩き方を変えてみたら、履きはじめに感じた衝撃が来た。ああ、これが以前の歩き方だなと思った。


人間は二足直立という大変むずかしいバランスをとりながら生活しているので、直立を崩されることに対して大変抵抗を持つ。まっすぐに立ちたくてたまらない動物なのである。


そのために視覚触覚などあらゆるセンサーを動員している。なかでも足の裏の感覚というのは最大最高に重要である。


で「クッションの効いた靴底」問題である。靴の裏についているから「なんか衝撃を吸収していいね」と思うのである。


しかし、街中の道という道がすべて靴底と同じ材質だったらどうか。くにゃくにゃしてまっすぐ立ちにくいことこのうえないのである。故に、膝に古傷を抱えた人は、足を丈夫にする方には働かずに、感覚がふにゃふにゃの靴底の上で試行錯誤しているあいだに、古傷が悪化してしまった。


大工さんシューズを履き始めた時に「アスファルトは固い」と感じた筆者はその後どうなったかというと、今はまったく固さは感じない。で、それは地面に強くぶつけない足の使い方を足の方が自主的に学んで選んでいった結果だと解った。


で、以前の靴の底が分厚い靴でどういう歩き方をしていたかというと、かかとを地面にたたきつけていたのである。


足の裏の思いがくみ取れた気がするので、変わって代弁する。前記したように人間は倒れたくないと強く願う生物で、そのために足の裏の感覚はかなり重要な位置を占めている。


日本足でまっすぐに立つためには、足元が硬い必要がある。たぶん硬いだろうと思って直立姿勢を確定した後で足元がぐにゃりとすると、よけいに直立姿勢はそのバランスを失う。


ゆえに足の裏は「この足元は頼りになる固さか、信頼できない柔らかさか」ということに絶えず気を配っている。スポーツシューズは、「衝撃をやわらげるため」に特にかかとは分厚いクッションで作られている。それだけ沈みこみ度合いも大きい。


かかとのクッションが沈み込んでいる最中は、足の裏にとっては「信用のできない、頼りにならない地面」という情報がキャッチされる。クッションの圧縮度合いが最高になった時に、ようやく体の重みは大地へとかかることになり、その硬い反発感覚を以て安心して直立確定へと全身は向かう。


靴の持ち主とシューズメーカーは「衝撃を吸収するとってもいいもの」と思っているかもしれないが、足とからだにとっては「ぐにゅぐにゅだから、どのタイミングでしゃんと立ったらいいのかわかりにくい足元」という環境でしかない。


人間、白黒はっきりしない状況というのは苦痛である。みずからの対応しだいてその時間を短縮できるならば、そちらを選ぶ。


歩行時に最初に着地するのはかかとであるから、かかとの丸さを生かして、タイヤがころがるように着地したのではぐにゅぐにゅの感覚ばかり察知されて、地面がしっかりと固いのかどうか解らない。


しかし、視覚情報ではフラットで固い地面というのは来ているので、足も結論を急ぐ。慎重に足を地面につけないと危ない(沼地でもあるくような状況)ではないことは間違いない。そこでかかとを地面にたたきつけるように歩くことによって、かかとのクッション部分を急速に圧縮して、地面の固さを感覚としてキャッチして、その固さから得られる反発力が瞬時に得られるのを望むようになる。


その足の使い方というのは、歩行という一連の流れるようなロスのない身体の使い方を良しとする方向性とは逆行する。一部だけを不自然に強調した使い方となる。かかとを着地する時だけ、アクセルを思い切り踏み込むようなロスなことこの上ない使い方である。



「衝撃を吸収するすばらしいクッション」をかかとにあてがわれたことによって、「余分にかかとを地面にたたきつけるロスで不合理な足の使い方」が引き出されたのでる。


大工さんが履くクッション性皆無の薄底シューズで初めて歩いた時の、異常に地面を固く感じる歩き方は、実はスポーツシューズのクッション性の高い靴底が生み出しているのである。


かかとにかかる衝撃を緩和すると言われると、やはり「いいかな?」と感じてしまう。しかし、「嫌いな人が視界に入ったら自動的に焦点が合わなくなるメガネ」とか「嫌いな人の話す声は聞こえなくなる補聴器」なら、おかしいと解る。


かかとに余分な衝撃がくるから、余分な衝撃がこないようななめらかな身体の使い方を体は学んで改善していくと思うのだけれど、いかが?


靴を設計した人は、かかとは重い衝撃がかかる場所という角度で観ている。私は、地面からの情報を最初にキャッチするところだと観ている。


災害現場で口をそろえて言うのが「ぜんぜん情報がなかったから動けなかった」


スポーツのトレーニングなどは、「筋肉を鍛える」とか「持久力をつける」とか出力するやりかたばかりに目が向いているように見えるけれど、情報の入力が先にあって、その結果としての出力だということが軽視されているように思える。


だから、スポーツのウエアやシューズは、動きをサポートするものが最近流行だけど、情報入力を正確に精密に促進するものという観点から観れば、全然違ったものができそうだ。(なにもアイデアはないけど)


出力(行動)がうまくいかない時は、入力を疑え、というやり方は使い道があるかもしれないと思って、いろいろと試みているところです。